搾取とは、誰かが他者の生産物の一部を制度的に取得する構造である。マルクスはこの構造を「剰余価値」理論として定式化し、資本主義の本質を搾取に求めた。しかしこの問題意識はマルクス以前から、さまざまな思想家たちの中で断片的に現れていた。
古代ギリシアでは、アリストテレスが高利貸しを「不自然な富の増殖」として批判した。中世キリスト教世界でも、トマス・アクィナスが利子取得を倫理的に否定し、「正当な価格」論を展開した。これらはいずれも搾取に近い問題意識を持っていたが、社会制度の分析や歴史的構造の批判までは踏み込まなかった。
近代に入ると、ロックが「労働による所有の正当化」を唱え、ルソーが私有財産の成立そのものを不平等の起源と批判した。重農主義者やスミス、リカードといった古典派経済学者も、富の分配や労働価値に注目したが、資本と労働の制度的分離を「搾取」とはみなさなかった。
マルクスはこうした先行理論を統合し、「搾取=剰余価値の制度的移転」として体系化。賃労働制そのものが労働力の商品化に基づき、剰余労働が資本家に無償で移転される構造を暴いた。さらに、資本の出発点にある「原始的蓄積」(囲い込みや奴隷制度)にまで遡り、所有の正当性は歴史的暴力に根ざしていると喝破する。ここに「搾取=原罪」という視点がはじめて理論的に確立された。
しかし、20世紀以降の現実社会はこの「原罪」への対処を革命ではなく、制度調整で乗り越えようとした。ケインズは搾取構造には触れず、資本の投資不足による不況と失業を主因と見なし、有効需要政策で雇用を安定化させようとした。制度派経済学も、所有や契約は自然なものではなく制度的構築物ととらえ、交渉力や法制度の調整によって格差を是正する道を模索した。
ここで社会は一つの選択をした。「搾取は構造的に存在するが、それを根絶するよりも、受け入れつつ抑制する制度で折り合いをつける」ことである。これは宗教の原罪論とも類似している。キリスト教がアダムの罪を全人類の原罪としつつも、救済・贖罪・制度を通じて社会秩序を維持しようとしたように、社会は搾取を完全には否定せず、「制度的贖罪」で対処してきた。
現代のWeb3的潮流はこの文脈の延長にある。DAOやトークン、ブロックチェーンといった仕組みは、過去の所有を暴力的に否定せず、むしろ透明性と分散性を高めることで「搾取が起こりにくい制度設計」を志向している。これはマルクス的問題意識を継承しつつ、制度派的柔軟性を持ち、暴力に頼らない改革を模索する現代的アプローチである。
結局、多くの人々は完全な正義ではなく、「生活が成り立ち、取り分がある程度公平なら不満は抑えられる」という現実と折り合いながら生きている。搾取を原罪と認めることは、理論的には重要だが、社会的には「どう折り合いをつけるか」が本質となる。Web3は、その折り合い方を新たな技術と制度で再設計しようとする、21世紀の静かな挑戦なのである。