2025年9月21日日曜日

シミュレーション仮説

 現代における思考実験は、哲学・科学・SFの境界を越えて、「私たちの現実とは何か?」という問いを多角的に掘り下げる道具となっている。中でも最も刺激的で影響力のあるものの一つが、スウェーデンの哲学者ニック・ボストロムが2003年に提唱したシミュレーション仮説である。これは、高度な文明が十分に進化すると、過去の人類の意識や歴史を完全に再現できるシミュレーションを構築できると仮定し、その上で「もしそうした文明が存在し、それを複数回実行しているならば、我々がその中の一つにいる可能性は非常に高い」という逆転的推論を展開する。この仮説は単なる哲学的ジョークではなく、現実が計算可能な情報構造によって構成されている可能性を提起するものであり、計算理論・量子物理学・人工知能など多くの分野に波及している。

この仮説をめぐるもう一つの注目点は、情報と意識の関係性である。ジョン・サールの「中国語の部屋」思考実験は、コンピュータが意味を「理解」することなく正しい出力を行える状況を描くことで、「情報処理」と「意味理解」の間に決定的な隔たりがあることを示唆する。この議論は、シミュレーション仮説が前提とする「意識の再現可能性」に対する根本的懐疑とつながっている。もし人間の意識が単なる演算の産物ではなく、現実世界に特有の物質的基盤や主観的体験(クオリア)を伴うものであるならば、我々の現実が“ただの”情報処理であるとは言えなくなる。

こうした問いを、哲学だけでなく、現代のフィクション作品は独自の形で表現している。テッド・チャンの短編『あなたの人生の物語』では、異星人の非線形言語を習得することで、人間の時間認識が変化し、未来の出来事が現在と同等に認識されるようになる。これは「観測と言語によって“現実の構造”そのものが変わる」というIUT理論的な洞察と呼応する。またアニメ作品『STEINS;GATE』は、時間の分岐と収束という世界線理論を通じて、個人の選択が果たして“自由”であるのか、それともすでにシミュレートされた経路上に乗っているだけなのか、という実存的な問いを突きつける。

他にも『serial experiments lain』では、ネットワークと現実が融合し、情報の階層構造が現実の重力すら変えていく。これはホログラフィック原理が示す「2次元情報が3次元現象を生み出す」構造と一致しており、現実が階層的・投影的に構築されていることへの直感的理解を促す。一方、数学的世界観からのアプローチとしては、abc予想や望月新一によるIUT理論が示すように、数の背後にはまだ解明されていない巨大な構造が広がっており、それ自体が“宇宙のプログラム”であるかのような側面を帯びている。数学がただの記号遊びではなく、宇宙の深部を記述するための言語であるとすれば、それはまさに、現実がコードで書かれているというシミュレーション的世界観を補強する。

現代の思考実験の価値は、それが「非現実的だから」と切り捨てられるものではなく、“現実をどう定義するか”という問いの形式そのものを問い直すことにある。シミュレーション仮説、ホログラム理論、数理宇宙論、人工知能論――これらを結びつけることは、現代思想における最も包括的かつ挑戦的な営みであり、哲学と科学、創作と現実の境界を越えて、私たち自身の存在の根底に揺さぶりをかけている。