言葉が最もよく震えるのは、発話の事故ではなく、言語そのものが自らの均衡を失う瞬間だ――ジル・ドゥルーズは小論「Bégaya-t-il」で、これを「言語のどもり」と呼び、偉大な書き手とは「母語の内部に未知の少数性を刻み、言語それ自体をどもらせる者」だと述べました。つまり他言語を混ぜるのではなく、母語の中に「存在しなかった異国語」を彫り出すことがスタイルなのです。WPMU CDN+1
この概念を最も鋭く実演してみせるのが、ルーマニア出身の詩人ゲラシム・ルカの音声詩です。代表作「Passionnément」の朗読では、pas / passe / passion…の連鎖が、語と語の間ではなく語そのものの内部で裂け目を増殖させ、連結は前進ではなく“反身的(reflexive)”に折返されます。ドゥルーズは、ここで起きているのは話し手の吃音ではなく「言語のアフェクトとしてのどもり」であり、言語全体が左右に横揺れし前後に縦揺れして、最後に〈Je t’aime passionnément(私はあなたを情熱的に愛する)〉という一塊の音響へと収斂すると分析しました。実際の上演映像に触れると、その“揺れ”が呼吸と拍動のレベルで組み替えられていくのが分かります。WPMU CDN+1
ドゥルーズ/ガタリの『カフカ――小さな文学のために』が示したのは、支配的な大言語を内部から「小さく」用いること、すなわち脱領土化=“大言語をどもらせる”技法でした。ここでの小ささは規模ではなく、言語の均質性を崩す異物化の運動を指します。ルカの音声詩はまさにその実験室で、音韻の反復・変調(ドゥルーズの言う「包摂的分岐」)によって、意味の搬送路に垂直の厚みを挿し込み、言語の自然な直進を逸らしてしまう。こうして“文学=生命”の接点で、言語は情報の導管から生成の場へ変わります。University of Minnesota Press+2Iberian Connections+2
重要なのは、模倣ではなく生成であるという点です。ドゥルーズが強調する「母語でどもることに到達する」という命題は、吃音者のふるまいの模倣ではなく、「言語の体系そのものに連続的な変異帯を通過させる」ことを意味します。それは、発話(パロール)の乱れとしてではなく、言語(ラング)の側の不均衡として出来事を立ち上げること。ゆえに、ルカの詩はスキャンダラスに聴こえながら、厳密には純粋な技法です。University of Iowa Libraries+1
この視座から見ると、「Passionnément」の終結は告白の劇ではなく、言語の臨界操作の成果です。断片化と過剰反復は、意味の劣化ではなく、意味を越える強度(アフェクト)を組み立てる。愛の宣言は、心理的内面の発露ではなく、音響的・運動的な構築物として到達されるのです。ドゥルーズにとって、それは政治的でもあります。少数的使用(devenir-minoritaire)は、表象秩序への従属を外す練習であり、詩が言語の「自然」を撹乱して世界の「必然」をほどくとき、私たちは僅かな自由の余白を得る。ルカの息と舌は、その余白を聴取者の口腔まで連鎖させ、受け手の発話器官にまで“どもり”を感染させるのです。Cambridge University Press & Assessment+1
結局、ルカはドゥルーズに概念の種を与え、ドゥルーズはルカに批評という共鳴箱を与えました。音声詩のスタジオと哲学の工房はそこで直結し、私たちの母語は、最も親密な異国として再起動します。言語がよろめく時、世界は別様に立ち上がる――それが「言語のどもり」の約束であり、ルカの声とドゥルーズの思考が共有する、静かな革命のかたちだと感じます。kellyhjones.files.wordpress.com+1
