吉本隆明とジャック・デリダ:批評的アプローチの類似性
批評的姿勢の共通点
吉本隆明とジャック・デリダは、ともに既存の思想パラダイムを批判的に乗り越えようとする態度で共通しています。吉本隆明は戦後日本の論壇において、戦前以来の文芸批評の権威である小林秀雄的な「近代文学」観や、戦後左翼の教条的マルクス主義に対する違和感から出発し、新たな批評視座を切り開きましたdecon.fpark.tmu.ac.jpja.wikipedia.org。実際、吉本の代表作『共同幻想論』(1968年)は当時蔓延していたマルクス・レーニン主義の図式への辟易から生まれ、全共闘世代に熱狂的に受け入れられましたja.wikipedia.org。吉本は既成の文学・政治二元論にも疑問を呈し、「近代の『文学』とか『人間』とかいうものの制度」そのものを掘り崩そうとする批評姿勢を示しましたdecon.fpark.tmu.ac.jp。これは既存の前提を覆し根底から問い直すという点で、極めてラディカルな姿勢でした。
一方、デリダもまた西欧哲学の伝統的前提への徹底的な批判で知られます。デリダは著書『グラマトロジーについて』(1967年)などで、西洋形而上学が長らく特権化してきた「現前=プレザンス」(存在の直接的・自己完結的な現れ)やロゴス中心主義(音声言語を文字より優位とみなす考え)を批判し、その安定した基盤を揺るがしましたnote.comnote.com。デリダは「常に開かれていて揺らぎ得るもの」として思想を捉え、伝統的に不変と信じられてきた基盤(例えば言語のヒエラルキーや中心/周縁の序列)自体に疑問を投げかけたのですnote.com。この脱構築的姿勢は、吉本が日本近代文学や戦後思想の自明性を疑い解体しようとした態度と響き合います。ともに既存の規範や中心概念を相対化し、新たな地平を切り開こうとした批評的姿勢が類似していると言えます。
言語観・記号論における類似性
吉本とデリダは、言語と思考の関係に独自の視点を持ち、記号や意味の捉え方で共通する部分があります。吉本隆明は言語論的な関心が深く、詩人でもあった彼は言葉そのものの持つ力や構造を追究しました。たとえば吉本は、自身の評論集『論註と喩』などで「表現=自己疎外」という概念を提示し、何かを言葉で表現した瞬間に自己から乖離が生じると論じています1101.com。彼にとって言語表現は常に自己と他者/世界とのずれや差異を孕むものであり、その差異性こそが言語の本質だと考えられました1101.com1101.com。実際、吉本はハイデガーやヘーゲルの概念も参照しながら、「同一性を突き詰めれば必ず差異性の本質に到達する」という議論を展開し、近代的な主語=主体の解体に寄与しています1101.com1101.com。これは、スイス言語学者ソシュールの指摘した言語における差異の重要性(意味は差異関係によって生まれる)を踏まえつつ、独自の思想へ昇華したものです。批評家・蓮實重彦も「吉本隆明は記号との遭遇に誰よりも敏感な存在だ」と評しておりdecon.fpark.tmu.ac.jp、吉本の言語観が記号論的な鋭さを持っていたことを指摘しています。
デリダもまた意味の差異に着目した思想家です。彼の提唱した「差延(ディフェランス)」の概念は、「意味とは他の意味との差異によって生じ、その確定は常に遅延する」という考えを示していますnote.com。デリダは言語における意味が固定された実体ではなく、常に他の記号との関係でずれ動くものであると捉え、西洋哲学が求めてきた確固たる中心(=超越的なシニフィエ)は存在しないと論じましたnote.comnote.com。その一環として、音声言語を直接的で純粋な現 presence とみなし文字言語を二次的なものとする従来の考えを批判し、文字=エクリチュールこそ言語の本質的要素だと主張していますnote.comnote.com。実際、吉本隆明自身もデリダの著作に触れた際、「著者デリダは、強いていえば文字表記をグラマトロジー(書字学)の本質に置く言語哲学者だ」という鋭い評価を残していますallreviews.jp。この言及は、デリダの言語観が記号=文字の体系に重心を置く点を的確に捉えたものです。吉本とデリダはいずれも、言語表現の内部に潜む曖昧さや差異に注目し、記号のもつ自律的な力とそれが思想や現実を構成する働きを重視しました。両者のアプローチは、言語が単なる伝達手段ではなく現実を構築しうる創造的な作用をもつという点で響き合っていますdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。実際、ある解説者は「吉本隆明の共同幻想論は、言語や概念によって構築される現実を相対化し、言語の外部に普遍的な実在は存在しないという点で、デリダらのポスト構造主義思想と通底する部分がある」と指摘していますdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。
もっとも、吉本と言語をめぐる視点には独特の積極性もあります。彼は言語の恣意性や幻想性を認めつつも、新たな意味や共同主観的現実を生み出す力として言語を捉えていましたdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。デリダの脱構築がテクストの内部で無限の読解を促すのに対し、吉本は言葉によって社会的現実を再構成し得ると考え、例えば大衆の語る言葉の中に新たな思想の胎動を見るような視座も持っていました。この点で、「言語の限界を指摘しつつもその生産的側面を重視する」という吉本の態度は、純粋にテクスト内部の解体に留まらない特徴として際立ち、デリダ流のポスト構造主義とは異なるベクトルも備えていると評価されていますdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。
共同体論・近代批判における比較
両者の批評は、共同体や近代社会の捉え方にも革新的な視点をもたらしました。吉本隆明の提起した共同幻想論は、その代表例です。吉本は国家や宗教といった共同体の基盤を、それ自体が人間の想像力によって作り上げられた**フィクション(幻想)**であると喝破しました。従来の社会契約説やマルクス主義国家論が国家を機能的システムとして説明していたのに対し、吉本は「人間は、詩や文学を創るように、国家というフィクションを空想し創造したのだ」と述べ、国家の実在性を相対化したのです。言い換えれば、国家や共同体の統合原理は共同主観的な“物語”に過ぎず、人々がそれを信じることで現実性を帯びているに過ぎないと論じました。この視点は、西洋思想の文脈ではアルチュセールのイデオロギー装置論(人々が自ら生み出した観念に縛られる構造)に似ているとも評されていますja.wikipedia.org。吉本の共同体論は、日本の伝統的な共同体観や近代的ナショナリズムを批判的に乗り越え、共同体=幻想という大胆な視座を提示した点で画期的でした。
デリダ自身は直接的に国家論や共同体論の書物を書いたわけではありませんが、その思想は近代的主体や共同体の基盤の解体に大きな影響を与えました。デリダは「テクストの外に何も存在しない(il n’y a pas de hors-texte)」という有名な命題で、あらゆる意味やアイデンティティはテクスト(記号体系)のネットワークから独立して存在しないことを示唆しました。これは、共同体のアイデンティティや歴史的真実とされるものも、言語的・記号的構築物である可能性を示しており、普遍的・超越的な基盤への批判として理解できます。実際、デリダは近代ヨーロッパ思想が前提としてきた「普遍的人間(主体)」像や「最終的な真理」の所在を問い直し、それらが特定の文化・歴史に根差した一つのフィクションに過ぎないことを示唆しましたnote.comnote.com。この点で、吉本の共同幻想論とデリダの批評は、ともに近代的な「実体」概念の批判という大きな地平で交差しています。吉本が「人間」や「国家」など近代ヒューマニズムの所与を固定的に捉えず相対化した態度は、デリダが西洋形而上学の普遍主義やロゴス中心主義を批判した態度と軌を一にしますtoyodasha.in.coocan.jpnote.com。両者とも、「われわれ」が無自覚に前提としている共同体や主体の枠組みにメスを入れ、その構造を暴き出すことで思想の地平を拡張しました。
さらに、吉本とデリダは高尚な思想と大衆文化・周縁的な現象を同列に論じるという越境的な批評方法でも共通点があります。吉本隆明は文学作品のみならず、漫画や歌謡曲などサブカルチャー的素材も批評の俎上に載せ、「資本論」と児童文学(黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』)を同じ水準の言語で論じるような大胆な比較も行いましたeyck.hatenablog.com。彼は「重層的な非決定」と呼んで、文化現象を上下のヒエラルキーではなく同等のものとして扱う視座を示したのですeyck.hatenablog.com。この路線は後の批評家(例:東浩紀)によって継承・発展され、東はまさにデリダの哲学テクストとオタク文化の作品を完全に等価なものとして論じる試みを行いましたeyck.hatenablog.com。デリダ自身も哲学テクストの脚注や周辺に埋め込まれたエピソードを精密に読み解き、中心/周縁の区別を解体しましたが、そうした高尚と卑近の逆転という批評センスは吉本の方法とも通じるところがあります。実際、吉本と同世代の批評家・柄谷行人は、自身が1980年代にイェール大学でデリダやポール・ド・マンの講義を受けた経験について、「アンリ・ド・マン(※ポール・ド・マンの叔父)の本はスターリン主義時代のプロレタリア文化運動を厳しく批判しているもので、日本の思想家、例えば吉本隆明なんかに視点が似ていると思った」と述懐していますdecon.fpark.tmu.ac.jpdecon.fpark.tmu.ac.jp。この発言からも、国際的文脈の中で吉本とデリダ的発想の類似が認識されていたことが伺えます。
まとめと出典情報
以上のように、吉本隆明とジャック・デリダの批評アプローチには、核心においていくつかの類似したポイントが認められます。両者ともに既成の思想や制度への挑戦者であり、言語と思考の関係を再定義し、共同体や主体の基盤を批判的に捉え直しました。それぞれの論点について、関連する日本語文献や記事から要点と評価をまとめ、以下に出典情報を示します。
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合田正人『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書, 2011) – 戦後日本を代表する二人の思想家について、**「個体とは何か」「意味とは何か」「システムとは何か」「倫理とは何か」**の四つの問いを立てて比較検討した書籍note.com。著者の合田正人はレヴィナスやサルトル研究で知られ、吉本と柄谷の発想力・構築力・破壊力の大きさを指摘するnote.com。本書は両者の思想を思想史的文脈で位置付ける試みであり、吉本=柄谷という日本内の対比を通じて、その批評が持つ世界的位相(ポスト構造主義との接点など)も示唆している。
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ブログ「共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人」(easter1916のブログ, 2011年5月24日) – 上記合田氏の新書を読んだブロガーが、自身の疑問点を綴った記事blog.livedoor.jp。記事中ではデリダとサールの論争に言及し、「デリダの標的になったのがフレーゲに始まる言語哲学の本流ではなく、オースティンの発話行為論だった」点を指摘blog.livedoor.jp。これはデリダの言語観(発話の文脈・意図への批判)に光を当て、柄谷行人や吉本隆明の議論にも通じる“言語使用の規範性”の問題を論じている。デリダが言語哲学の主流ではなく日常言語(オースティン)を批判したことに触れるこの視点は、吉本も日常の大衆言語に注目したという点で興味深く、両者の言語観比較の一材料となる。
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松田 樹「たった一つの、私のものではない『日本語』――ジャック・デリダ、中上健次、『批評空間』――」(『Suppléments』no.3所収, 2024年) – パリで行われたデリダと中上健次の対談(1986年)をめぐる論考。戦後日本の批評家たち(浅田彰・柄谷行人・蓮實重彦ら)の問題意識とデリダ思想の交錯を分析している。中で蓮實重彦が**「『論註と喩』の吉本隆明は、記号との遭遇に誰よりも敏感な存在である」と述べたことを紹介decon.fpark.tmu.ac.jp。蓮實は吉本や江藤淳といった戦後批評家にも実は「記号そのものとの出会いに戸惑う書き手の姿」が見られると指摘しdecon.fpark.tmu.ac.jp、吉本の記号論的鋭敏さをデリダ的な問題系に位置づけている。また柄谷行人がアメリカ留学時に「アンリ・ド・マンの著作は日本の吉本隆明の視点に似ていると思った」**との回想も引用されdecon.fpark.tmu.ac.jpdecon.fpark.tmu.ac.jp、吉本の批評視座が国際的思想潮流(亡命ユダヤ人によるマルクス主義批判など)と響き合っていた点が示唆される。思想史的に吉本とデリダの接点を論じる興味深い研究である。
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東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」(講談社現代新書, 2007年)および塚田有那「言語の爆発的失敗 — 東浩紀から吉本隆明『マス・イメージ論』への遡行」(paint/noteブログ記事, 2010年) – 東浩紀は小説とサブカルチャーを横断して論じ、デリダ的な知を日本のオタク文化批評に応用した人物。塚田(eyck名義)のブログ記事では、吉本隆明の『マス・イメージ論』を再検討しつつ、「東はデリダとオタクを完全に等価に扱う存在」であり、吉本の試みた高低ない批評視座を遂行したと評しているeyck.hatenablog.com。吉本が資本論と少女のエッセイを同列に論じた「重層的な非決定」の先駆性eyck.hatenablog.com、それを継いだ東の批評実践(村上春樹からアニメまでを同じ文体で論じる)が、デリダ的思考と接続して語られているeyck.hatenablog.com。サブカルチャーまで含めた批評の射程において、吉本とデリダ的脱構築の方法論的共鳴を捉えた論考と言える。
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Yahoo知恵袋「吉本隆明の共同幻想論はデリダ等のポスト構造主義的と言えますか」(質問No.14299294484, 2024年6月9日) – ネット上のQ&Aだが、この中で生成AIによる参考見解が示されており、吉本の共同幻想論について「言語や概念によって構築される現実を相対化し、言語の外部に普遍的な実在は存在しないという点でデリダらのポスト構造主義と通底する」と述べられているdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。さらに「ただし共同幻想論は言語ゲーム的な解体に終始せず、言語を通じ新たな現実を創造しようとする生産性の重視や、東洋思想(無常観・空)の影響による独自性がある」と指摘されておりdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp、吉本思想の特徴とデリダとの差異も含めて整理されている。必ずしも学術的出典ではないものの、両者の思想上の類似点(言語構築された現実の相対化)を簡潔にまとめたコメントと言える。
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吉本隆明「『シボレート――パウル・ツェランのために』書評」(『読売新聞』1990年5月掲載 → ALL REVIEWS再録) – デリダ著『シボレート』(ツェラン論集)の邦訳に寄せた吉本の書評allreviews.jp。吉本はデリダの別の詩人論「エドモン・ジャベスと本の問題」に感銘を受けた経験を述べ、本書でも**「デリダは文字表記を本質におく言語哲学者だが、ユダヤ的主題に入ると深淵を覗く哲学詩人に変貌する」と評しているallreviews.jp。この評言は、デリダの言語観(文字=エクリチュール重視)と思想スタイルを的確に表現したものとして貴重である。また吉本自身がデリダの著作に真摯に向き合い評価を下していた事例であり、日本の思想家によるデリダ理解の一端を示す資料でもある。吉本はデリダのユダヤ性へのこだわり(ジャベスやツェランというユダヤ人詩人への執着)にも言及し、それがデリダの哲学を単なる言語分析に留まらない深みへと導いている点に注目しているallreviews.jp。この書評から浮かび上がるのは、吉本とデリダの間に横たわる詩と哲学、言語と宗教性**といったテーマでの共振であり、両者の批評アプローチの豊かさを物語っている。
以上の文献・情報源は、吉本隆明とジャック・デリダの批評的姿勢や思想上の類似点を日本語で論じたり示唆したりしているものです。それぞれ【 】内に示した番号は、引用箇所への参照を表しています。今回収集した資料から総合すると、吉本隆明とジャック・デリダは「言語が世界を作る」という視点や、既成の権威への懐疑、差異に着目した思考態度などで相通じるものがあり、日本の思想史の中でも両者を関連づけて論じる試みがいくつか見られることが明らかになりました。
参考文献・出典一覧(作者・書名・年など):
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easter1916「共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人」(ライブドアブログ, 2011年5月24日)blog.livedoor.jp
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松田樹「たった一つの、私のものではない『日本語』――ジャック・デリダ、中上健次、『批評空間』――」『Suppléments』第3号所収、2024年decon.fpark.tmu.ac.jpdecon.fpark.tmu.ac.jp
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塚田有那(eyck)「言語の爆発的失敗 東浩紀から吉本隆明『マス・イメージ論』への遡行」(ブログ「paint/note」記事, 2010年6月8日)eyck.hatenablog.comeyck.hatenablog.com
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Yahoo知恵袋「吉本隆明の共同幻想論はデリダ等のポスト構造主義的と言えますか」(質問投稿日2024年6月9日)におけるAI回答detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
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吉本隆明「『シボレート――パウル・ツェランのために』書評」(『読売新聞』1990年5月13日付朝刊に掲載、ALL REVIEWSに再録)allreviews.jp
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『共同幻想論』吉本隆明、河出書房新社、1968年
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「デリダにおける『現前』」(ブログ「Inside of my submarine」記事, 2021年2月16日)note.comnote.com