2025年9月21日日曜日

インカのコインと賭けの帝国

 

遥か昔、南米アンデス山脈に、ひとつの金の円盤があった。インカ帝国では、これは神に捧げられた神聖な供物であり、単なる交換の道具ではなく、祈りと信仰の象徴だった。その重みには人々の労働と願いが込められていた。

やがて16世紀、スペインの征服者たちがアンデスに到達し、その金の円盤は略奪された。大西洋を渡った円盤はヨーロッパの金融都市へ運ばれ、貨幣の一部となっていく。本来は神との契約だったその金は、取引と交換のための価値単位へと変貌する。

時代が進むと、貨幣は金属から紙幣へ、紙幣から預金へ、さらに信用へと姿を変えた。実体のある資産に裏打ちされていたはずの貨幣は、次第に「未来の約束」だけで動くようになった。誰もが信用をもとに取引し、貨幣は「信じられるもの」から「賭けられるもの」へと移り変わっていく。

20世紀、ウォール街ではこの傾向が一気に加速する。株式、先物、デリバティブ、クレジットスワップ——金融商品は次々に複雑化し、実物経済とは切り離された世界で膨張していく。そこで取引されているのは、もはや企業の生産力や労働力ではなく、期待と予測の数字である。上がるか、下がるか。現実ではなく、未来の可能性そのものが商品となった。

21世紀に入ると、この「賭けの帝国」はカジノ資本主義と化す。AIアルゴリズムがナノ秒単位で株を売買し、インフルエンサーの発言一つで市場が乱高下する。企業の価値は、実際の利益や雇用ではなく、語られる物語や市場の期待によって決定される。そこにあるのは、生産でも流通でもなく、純粋な「賭博的スループット」だ。

それでも、あのインカの金の円盤は回り続けている。今はもはや祈りの対象ではなく、スクリーン上で高速回転するアルゴリズムの対象となった。私たちは、気づかぬうちに「価値」ではなく「確率」に支配されたカジノの中に生きているのだ。