ラベル ヨシモトーン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ヨシモトーン の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年10月13日月曜日

数学物理における「斜交(oblique)」とは、直交(orthogonal)ではない座標系や基底を指し、相互干渉・非独立性を意味する。

 数学物理における「斜交(oblique)」とは、直交(orthogonal)ではない座標系や基底を指し、相互干渉・非独立性を意味する。直交座標はユークリッド的な平坦空間を前提とするが、斜交座標では軸が傾き、計量テンソル 

gμνg_{\mu\nu} の非対角成分が現れる。これは、空間が曲率をもち、観測者によって時間や距離の関係が変化することを表す。すなわち、斜交は「曲がった空間」や「非慣性系」の数学的兆候であり、一般相対性理論においては重力そのものを意味する。たとえば非慣性系では時間軸と空間軸が混ざり g0i0g_{0i} \neq 0 となり、時間と空間が直交しない。量子力学でも非エルミート系では固有状態が直交せず、左右固有ベクトルが「双直交(biorthogonal)」関係をなす。これにより、非保存性や不可逆性が表現される。また、場の理論や微分幾何では、斜交座標が電磁場や重力場の結合を記述する。トーションやゲージ接続はこの非直交成分に対応する。要するに、斜交とは観測者が空間と独立でいられない状態、すなわち「観測が空間を変形する」ことの数理的形式であり、主体と世界の相互干渉を表す構造である。吉本隆明の表出理論における「指示と表出の非直交性」は、この物理的斜交と同型的である。

アインシュタインの理論は、重力を「力」ではなく時空の曲率として説明する点で、勾配理論的である。

 アインシュタインの理論は、重力を「力」ではなく時空の曲率として説明する点で、勾配理論的である。一般相対性理論では、計量テンソル 

gμνg_{\mu\nu} の勾配(二階微分)が曲率テンソルを生み、これが重力場を構成する。特殊相対性理論でも、物理量の保存則 μTμν=0\nabla_\mu T^{\mu\nu}=0 により、すべての変化が勾配として捉えられる。哲学的には、時間・空間・質量などの存在は絶対的ではなく、相互の関係(勾配)として定義される。したがって、アインシュタインの理論は「関係の勾配構造」としての宇宙像を提示したと言える。

リディアンクロマチックコンセプトと吉本隆明の表出理論はいずれも、固定的な規範を拒み、中心の設定によって場の秩序を再構成する理論である。

 リディアンクロマチックコンセプトと吉本隆明の表出理論はいずれも、固定的な規範を拒み、中心の設定によって場の秩序を再構成する理論である。リディアン中心(F♯)が音高間に重力勾配を生むように、表出主体は言語空間に心理的・社会的な力場を形成する。両者は独立した軸を持ちながらも、要素同士が干渉しあう「斜交」構造を重視し、転調や文脈転換によって意味や響きが生成される。LCCが音の重力理論なら、吉本は言葉の重力理論であり、いずれも「自由と秩序」を両立する生成的フィールドを描く。


2025年10月11日土曜日

カントからソシュール/ヤコブソンに至る流れは、二元対立を「直交的構造」に転換した思想史の道筋として整理できる

 カントからソシュール/ヤコブソンに至る流れは、二元対立を「直交的構造」に転換した思想史の道筋として整理できる。カントは人間の認識を空間と時間という直交的な形式に基づく構成と捉え、経験を主観と客観の座標系上で可能にした。スピノザは精神と延長を対立させず、同一実体の二つの独立な表現とすることで、二元論を平行関係へと移し替えた。ボーアは量子論において波と粒子を排他的ではなく相補的な現象と見なし、観測条件ごとに独立軸が立つと考えた。カッシーラーは人間文化を神話・言語・科学などの象徴形式に分け、互いに干渉しない多軸的世界像を示した。ソシュールとヤコブソンは言語を通時/共時、連辞/選択という直交二軸で分析し、構造そのものを「座標」として捉え直した。こうして哲学的二元論は、互いに独立しながら世界を織りなす直交的構造へと転換された。


シャノンはノイズを定義しなかった。これにより情報理論は意味から完全に切り離され、記号の伝達効率のみを扱う純粋な形式科学として成立した

 シャノンはノイズを定義しなかった。これにより情報理論は意味から完全に切り離され、記号の伝達効率のみを扱う純粋な形式科学として成立した。ノイズは原因も内容も問われず、ただ確率的なゆらぎとして扱われる。この「非定義性」こそが、理論をあらゆる領域に応用可能にした源泉である。ベルクソンの哲学では、時間や意識は「持続」として定義不能な流れに宿る。彼にとっても、概念化を拒むものが真の創造の場であった。シャノンがノイズを排除せず、あくまでチャンネルの一部として計測したように、ベルクソンもまた、意識の流れを分節化せず全体として捉えた。両者に共通するのは、「定義しないことによる強度」である。ノイズは誤差ではなく、秩序の成立を支える余白であり、思考の外縁で光る測定可能な無知として、理論を閉じながら世界を開く。


漱石と吉本はいずれも「心的現象」を扱いながら、その内部でFとfの直交構造を描いた。Fは社会的・制度的な指示の次元、fは情動や衝動といった自己の一次的運動である

 漱石と吉本はいずれも「心的現象」を扱いながら、その内部でFとfの直交構造を描いた。Fは社会的・制度的な指示の次元、fは情動や衝動といった自己の一次的運動である。漱石の文学論では、感情の流れ(fₛ)が文体や語彙規範(Fₛ)と交差することで美的均衡が生まれる。リズムや比喩はこの交差角を微細に調整し、読者の知覚に「媒質化された心」を生じさせる。吉本隆明の表出理論でも、自己表出(fᵧ)と指示表出(Fᵧ)は互いに独立な基底として設定され、美とはその二つの力が過剰にも欠損にもならず共鳴する帯域に現れる。両者に共通するのは、F⊥fという直交構造を動的に保ちつつ、表出=E(F,f)を時間的に最適化する点である。美はFとfの和でも差でもなく、両軸の張力がつくる照度、すなわち「意味が成立しかける瞬間」の輝きとして立ち上がる。


2025年10月6日月曜日

通信時代の最初の文学

 ケルアックの文体は、タイプライターとテレタイプの時代精神の結晶だった。

個人の衝動を即興で叩き出すタイプ音は、同時代に鳴り響くテレタイプの世界通信音と共鳴し、
「書くこと=世界と同時に打つこと」へ変化した。
彼の『路上』は、通信時代の最初の文学だった。


言語のローレンツ変換——吉本隆明における指示表出と自己表出の時空

 吉本隆明の「指示表出/自己表出」理論は、近代思想におけるデカルト的座標構造を継承しながら、それを言語の運動体として再構成したものである。デカルトの世界では、主体と客体が直交する絶対的座標に配置され、観測者は外部から世界を測定する位置にあった。吉本の理論もまた、外界を指し示す「指示表出」と、内面を表す「自己表出」という二軸の交差で言語を把握する。この構造は一見静的な言語空間の地図に見えるが、実際には発話の強度や社会的位置によって軸そのものが揺らぐ動的な体系である。ここで注目すべきは、吉本の言語空間が、アインシュタインのローレンツ変換に類似した構造的変化を含んでいる点である。発話者の「速度」――社会的立場、情動の切実さ、語りのジャンル――が変化するごとに、自己表出と指示表出の交角が傾き、内面と外界の分離は崩れ、言語の時空が歪む。つまり吉本の理論は、発話行為そのものを観測の枠とみなし、言語を相対論的な場として捉えていたといえる。彼は数学的な形式を持たなかったが、言葉の社会的エネルギーが時空を変形させる直観を持っていた。結果として「言語の座標」は、もはや静止したデカルト平面ではなく、発話の速度によって傾くローレンツ的言語時空――内面と外界が融解しながら新しい共同性を生成する場――として立ち現れるのである。

2025年9月28日日曜日

吉本の「心的現象」を〈時間化度×空間化度〉の二次元平面で把える枠組みは、そのまま低次元射影と見なし、高次ではヒルベルト空間上の座標として一般化できます。

 吉本の「心的現象」を〈時間化度×空間化度〉の二次元平面で把える枠組みは、そのまま低次元射影と見なし、高次ではヒルベルト空間上の座標として一般化できます。すなわち、心的状態を 

xHx\in\mathcal{H}(内積とノルムが定まる完備空間)に埋め込み、通常状態を「基底多様体」近傍、異常をその法線方向への逸脱量として測る(距離や角度で定量)という読み替えです。吉本が語る「時間性/空間性の錯合」の破れは、二軸上のズレ=R2\mathbb{R}^2での偏差として可視化されますが、概念自体は高次でも成立します。拡散生成は実務的に RD\mathbb{R}^D(有限次元ヒルベルト空間)や潜在 Rd\mathbb{R}^d 上で、ノイズ付与とスコアlogp\nabla \log p)にもとづく逆過程で分布へ復帰します。ここで“いびつさ”(過飽和・偽輪郭・多様性欠落など)は、データ多様体からの逸脱として説明でき、CFGの強すぎる誘導や学習偏りで法線方向に押し出されると理解できる。理論的にもスコアマッチングは L2L^2(典型的ヒルベルト空間)で定式化され、SDE/ODE型の拡散枠組みはこの幾何を前提に逆時間ダイナミクスを解く——つまり吉本の二次元座標=現象学的射影、拡散モデル=ヒルベルト幾何での復元という対応が立つ、というのが要点です。ほぼ日 CORE Journal of Machine Learning Research+1 arXiv+1 arXiv+1 arXiv+1 arXiv+1

夏目漱石の『文学論』(1907)は、単なる文学批評ではなく、心理学的知見を取り込んで文学現象を「科学的に説明する」試みでした。

 

夏目漱石の『文学論』(1907)は、単なる文学批評ではなく、心理学的知見を取り込んで文学現象を「科学的に説明する」試みでした。そこで重要なのは、漱石がどの心理学者を直接参照し、また後世の研究者がどのようにその系譜を位置づけているかを整理することです。

まず第一に、漱石自身が直接参照している心理学者・理論があります。代表はフランスの心理学者テオドール・リボーで、彼の感情心理学は漱石のF+f公式における「f=情緒」の根拠を与えました。またアメリカのウィリアム・ジェームズも重要で、「意識の流れ」や「焦点と周辺(fringe)」の概念が、漱石のF=観念・焦点とf=情緒・雰囲気の二重構造と響き合います。さらに動物心理学者C. ロイド・モーガンの比較心理学、そして美学的参照としてジョン・ラスキンの『近代画家論』も明示的に引用され、文学的「真」の議論に利用されています。

第二に、直接の言及はないが、後世の研究から関連が示唆される心理学者がいます。イギリスのアレクサンダー・ベインは連合心理学を体系化し、注意や習慣、快不快の感情理論を展開しました。漱石はベインを直接名指ししてはいませんが、彼がロンドン留学期に学んだ心理学的枠組みの背景にはベインの影響が濃厚であると考えられています。またハーバート・スペンサーの進化論的心理学も、漱石が採用した「適応」「習慣」「快苦」といった語彙や発想の基盤を成していると指摘されます。

第三に、F/f理論と直結しており関連が明白なものとして、やはりリボー、ジェームズ、モーガンが挙げられます。これらは漱石が直接参照しただけでなく、F(内容=意味)とf(情緒=出来事性)の結合を説明する上で不可欠の支柱となっています。リボーが情緒理論でfを裏打ちし、ジェームズが意識の焦点/周辺構造でF+fの二重性を示唆し、モーガンが習慣と心理発達の観点から「集合的F」の議論を支えました。

第四に、後代理論との接続のために有効な思想家や研究があります。ベルクソンの「習慣記憶/純粋記憶」の二分は、F=脱文脈的な意味、f=文脈的で体験的な想起、という読み替えに直結します。セモンの「エングラムとエクフォリー」も、Fを痕跡内容、fを喚起と情動トリガーと見立てることができます。さらにバートレットの「スキーマ」理論は、意味と文脈の往還というF/f相互作用を再構成的記憶として説明します。そして現代ではタルヴィングが意味記憶とエピソード記憶を区別し、漱石のF=意味/f=エピソードという対応がより明確に照合される基盤を提供しました。その後のバウアーの気分一致記憶、シュヴァルツ&クロアの「感情=情報仮説」、ダマシオの「ソマティック・マーカー」仮説は、f(情緒)がF(意味判断)を方向づける仕組みを実証的に支えています。

まとめれば、漱石『文学論』は当時参照可能だったリボー、ジェームズ、モーガンらの心理学に直接依拠し、ベインやスペンサーの理論的背景を内在化しつつ、Fとfの合成という独自の公式を提示しました。その後、ベルクソンやバートレットを経て、タルヴィングら現代記憶心理学が意味記憶とエピソード記憶を分節化し、漱石のF/f図式と驚くほど自然に接続可能な視野を開いたのです。


2025年9月14日日曜日

吉本隆明とジャック・デリダ:批評的アプローチの類似性

 

吉本隆明とジャック・デリダ:批評的アプローチの類似性

批評的姿勢の共通点

吉本隆明とジャック・デリダは、ともに既存の思想パラダイムを批判的に乗り越えようとする態度で共通しています。吉本隆明は戦後日本の論壇において、戦前以来の文芸批評の権威である小林秀雄的な「近代文学」観や、戦後左翼の教条的マルクス主義に対する違和感から出発し、新たな批評視座を切り開きましたdecon.fpark.tmu.ac.jpja.wikipedia.org。実際、吉本の代表作『共同幻想論』(1968年)は当時蔓延していたマルクス・レーニン主義の図式への辟易から生まれ、全共闘世代に熱狂的に受け入れられましたja.wikipedia.org。吉本は既成の文学・政治二元論にも疑問を呈し、「近代の『文学』とか『人間』とかいうものの制度」そのものを掘り崩そうとする批評姿勢を示しましたdecon.fpark.tmu.ac.jp。これは既存の前提を覆し根底から問い直すという点で、極めてラディカルな姿勢でした。

一方、デリダもまた西欧哲学の伝統的前提への徹底的な批判で知られます。デリダは著書『グラマトロジーについて』(1967年)などで、西洋形而上学が長らく特権化してきた「現前=プレザンス」(存在の直接的・自己完結的な現れ)やロゴス中心主義(音声言語を文字より優位とみなす考え)を批判し、その安定した基盤を揺るがしましたnote.comnote.com。デリダは「常に開かれていて揺らぎ得るもの」として思想を捉え、伝統的に不変と信じられてきた基盤(例えば言語のヒエラルキーや中心/周縁の序列)自体に疑問を投げかけたのですnote.com。この脱構築的姿勢は、吉本が日本近代文学や戦後思想の自明性を疑い解体しようとした態度と響き合います。ともに既存の規範や中心概念を相対化し、新たな地平を切り開こうとした批評的姿勢が類似していると言えます。

言語観・記号論における類似性

吉本とデリダは、言語と思考の関係に独自の視点を持ち、記号や意味の捉え方で共通する部分があります。吉本隆明は言語論的な関心が深く、詩人でもあった彼は言葉そのものの持つ力や構造を追究しました。たとえば吉本は、自身の評論集『論註と喩』などで「表現=自己疎外」という概念を提示し、何かを言葉で表現した瞬間に自己から乖離が生じると論じています1101.com。彼にとって言語表現は常に自己と他者/世界とのずれや差異を孕むものであり、その差異性こそが言語の本質だと考えられました1101.com1101.com。実際、吉本はハイデガーやヘーゲルの概念も参照しながら、「同一性を突き詰めれば必ず差異性の本質に到達する」という議論を展開し、近代的な主語=主体の解体に寄与しています1101.com1101.com。これは、スイス言語学者ソシュールの指摘した言語における差異の重要性(意味は差異関係によって生まれる)を踏まえつつ、独自の思想へ昇華したものです。批評家・蓮實重彦も「吉本隆明は記号との遭遇に誰よりも敏感な存在だ」と評しておりdecon.fpark.tmu.ac.jp、吉本の言語観が記号論的な鋭さを持っていたことを指摘しています。

デリダもまた意味の差異に着目した思想家です。彼の提唱した「差延(ディフェランス)」の概念は、「意味とは他の意味との差異によって生じ、その確定は常に遅延する」という考えを示していますnote.com。デリダは言語における意味が固定された実体ではなく、常に他の記号との関係でずれ動くものであると捉え、西洋哲学が求めてきた確固たる中心(=超越的なシニフィエ)は存在しないと論じましたnote.comnote.com。その一環として、音声言語を直接的で純粋な現 presence とみなし文字言語を二次的なものとする従来の考えを批判し、文字=エクリチュールこそ言語の本質的要素だと主張していますnote.comnote.com。実際、吉本隆明自身もデリダの著作に触れた際、「著者デリダは、強いていえば文字表記をグラマトロジー(書字学)の本質に置く言語哲学者だ」という鋭い評価を残していますallreviews.jp。この言及は、デリダの言語観が記号=文字の体系に重心を置く点を的確に捉えたものです。吉本とデリダはいずれも、言語表現の内部に潜む曖昧さや差異に注目し、記号のもつ自律的な力とそれが思想や現実を構成する働きを重視しました。両者のアプローチは、言語が単なる伝達手段ではなく現実を構築しうる創造的な作用をもつという点で響き合っていますdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。実際、ある解説者は「吉本隆明の共同幻想論は、言語や概念によって構築される現実を相対化し、言語の外部に普遍的な実在は存在しないという点で、デリダらのポスト構造主義思想と通底する部分がある」と指摘していますdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp

もっとも、吉本と言語をめぐる視点には独特の積極性もあります。彼は言語の恣意性や幻想性を認めつつも、新たな意味や共同主観的現実を生み出す力として言語を捉えていましたdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。デリダの脱構築がテクストの内部で無限の読解を促すのに対し、吉本は言葉によって社会的現実を再構成し得ると考え、例えば大衆の語る言葉の中に新たな思想の胎動を見るような視座も持っていました。この点で、「言語の限界を指摘しつつもその生産的側面を重視する」という吉本の態度は、純粋にテクスト内部の解体に留まらない特徴として際立ち、デリダ流のポスト構造主義とは異なるベクトルも備えていると評価されていますdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp

共同体論・近代批判における比較

両者の批評は、共同体や近代社会の捉え方にも革新的な視点をもたらしました。吉本隆明の提起した共同幻想論は、その代表例です。吉本は国家や宗教といった共同体の基盤を、それ自体が人間の想像力によって作り上げられた**フィクション(幻想)**であると喝破しました。従来の社会契約説やマルクス主義国家論が国家を機能的システムとして説明していたのに対し、吉本は「人間は、詩や文学を創るように、国家というフィクションを空想し創造したのだ」と述べ、国家の実在性を相対化したのです。言い換えれば、国家や共同体の統合原理は共同主観的な“物語”に過ぎず、人々がそれを信じることで現実性を帯びているに過ぎないと論じました。この視点は、西洋思想の文脈ではアルチュセールのイデオロギー装置論(人々が自ら生み出した観念に縛られる構造)に似ているとも評されていますja.wikipedia.org。吉本の共同体論は、日本の伝統的な共同体観や近代的ナショナリズムを批判的に乗り越え、共同体=幻想という大胆な視座を提示した点で画期的でした。

デリダ自身は直接的に国家論や共同体論の書物を書いたわけではありませんが、その思想は近代的主体や共同体の基盤の解体に大きな影響を与えました。デリダは「テクストの外に何も存在しない(il n’y a pas de hors-texte)」という有名な命題で、あらゆる意味やアイデンティティはテクスト(記号体系)のネットワークから独立して存在しないことを示唆しました。これは、共同体のアイデンティティや歴史的真実とされるものも、言語的・記号的構築物である可能性を示しており、普遍的・超越的な基盤への批判として理解できます。実際、デリダは近代ヨーロッパ思想が前提としてきた「普遍的人間(主体)」像や「最終的な真理」の所在を問い直し、それらが特定の文化・歴史に根差した一つのフィクションに過ぎないことを示唆しましたnote.comnote.com。この点で、吉本の共同幻想論とデリダの批評は、ともに近代的な「実体」概念の批判という大きな地平で交差しています。吉本が「人間」や「国家」など近代ヒューマニズムの所与を固定的に捉えず相対化した態度は、デリダが西洋形而上学の普遍主義やロゴス中心主義を批判した態度と軌を一にしますtoyodasha.in.coocan.jpnote.com。両者とも、「われわれ」が無自覚に前提としている共同体や主体の枠組みにメスを入れ、その構造を暴き出すことで思想の地平を拡張しました。

さらに、吉本とデリダは高尚な思想と大衆文化・周縁的な現象を同列に論じるという越境的な批評方法でも共通点があります。吉本隆明は文学作品のみならず、漫画や歌謡曲などサブカルチャー的素材も批評の俎上に載せ、「資本論」と児童文学(黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』)を同じ水準の言語で論じるような大胆な比較も行いましたeyck.hatenablog.com。彼は「重層的な非決定」と呼んで、文化現象を上下のヒエラルキーではなく同等のものとして扱う視座を示したのですeyck.hatenablog.com。この路線は後の批評家(例:東浩紀)によって継承・発展され、東はまさにデリダの哲学テクストとオタク文化の作品を完全に等価なものとして論じる試みを行いましたeyck.hatenablog.com。デリダ自身も哲学テクストの脚注や周辺に埋め込まれたエピソードを精密に読み解き、中心/周縁の区別を解体しましたが、そうした高尚と卑近の逆転という批評センスは吉本の方法とも通じるところがあります。実際、吉本と同世代の批評家・柄谷行人は、自身が1980年代にイェール大学でデリダやポール・ド・マンの講義を受けた経験について、「アンリ・ド・マン(※ポール・ド・マンの叔父)の本はスターリン主義時代のプロレタリア文化運動を厳しく批判しているもので、日本の思想家、例えば吉本隆明なんかに視点が似ていると思った」と述懐していますdecon.fpark.tmu.ac.jpdecon.fpark.tmu.ac.jp。この発言からも、国際的文脈の中で吉本とデリダ的発想の類似が認識されていたことが伺えます。

まとめと出典情報

以上のように、吉本隆明とジャック・デリダの批評アプローチには、核心においていくつかの類似したポイントが認められます。両者ともに既成の思想や制度への挑戦者であり、言語と思考の関係を再定義し、共同体や主体の基盤を批判的に捉え直しました。それぞれの論点について、関連する日本語文献や記事から要点と評価をまとめ、以下に出典情報を示します。

  • 合田正人『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書, 2011) – 戦後日本を代表する二人の思想家について、**「個体とは何か」「意味とは何か」「システムとは何か」「倫理とは何か」**の四つの問いを立てて比較検討した書籍note.com。著者の合田正人はレヴィナスやサルトル研究で知られ、吉本と柄谷の発想力・構築力・破壊力の大きさを指摘するnote.com。本書は両者の思想を思想史的文脈で位置付ける試みであり、吉本=柄谷という日本内の対比を通じて、その批評が持つ世界的位相(ポスト構造主義との接点など)も示唆している。

  • ブログ「共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人」(easter1916のブログ, 2011年5月24日) – 上記合田氏の新書を読んだブロガーが、自身の疑問点を綴った記事blog.livedoor.jp。記事中ではデリダとサールの論争に言及し、「デリダの標的になったのがフレーゲに始まる言語哲学の本流ではなく、オースティンの発話行為論だった」点を指摘blog.livedoor.jp。これはデリダの言語観(発話の文脈・意図への批判)に光を当て、柄谷行人や吉本隆明の議論にも通じる“言語使用の規範性”の問題を論じている。デリダが言語哲学の主流ではなく日常言語(オースティン)を批判したことに触れるこの視点は、吉本も日常の大衆言語に注目したという点で興味深く、両者の言語観比較の一材料となる。

  • 松田 樹「たった一つの、私のものではない『日本語』――ジャック・デリダ、中上健次、『批評空間』――」(『Suppléments』no.3所収, 2024年) – パリで行われたデリダと中上健次の対談(1986年)をめぐる論考。戦後日本の批評家たち(浅田彰・柄谷行人・蓮實重彦ら)の問題意識とデリダ思想の交錯を分析している。中で蓮實重彦が**「『論註と喩』の吉本隆明は、記号との遭遇に誰よりも敏感な存在である」と述べたことを紹介decon.fpark.tmu.ac.jp。蓮實は吉本や江藤淳といった戦後批評家にも実は「記号そのものとの出会いに戸惑う書き手の姿」が見られると指摘しdecon.fpark.tmu.ac.jp、吉本の記号論的鋭敏さをデリダ的な問題系に位置づけている。また柄谷行人がアメリカ留学時に「アンリ・ド・マンの著作は日本の吉本隆明の視点に似ていると思った」**との回想も引用されdecon.fpark.tmu.ac.jpdecon.fpark.tmu.ac.jp、吉本の批評視座が国際的思想潮流(亡命ユダヤ人によるマルクス主義批判など)と響き合っていた点が示唆される。思想史的に吉本とデリダの接点を論じる興味深い研究である。

  • 東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」(講談社現代新書, 2007年)および塚田有那「言語の爆発的失敗 — 東浩紀から吉本隆明『マス・イメージ論』への遡行」(paint/noteブログ記事, 2010年) – 東浩紀は小説とサブカルチャーを横断して論じ、デリダ的な知を日本のオタク文化批評に応用した人物。塚田(eyck名義)のブログ記事では、吉本隆明の『マス・イメージ論』を再検討しつつ、「東はデリダとオタクを完全に等価に扱う存在」であり、吉本の試みた高低ない批評視座を遂行したと評しているeyck.hatenablog.com。吉本が資本論と少女のエッセイを同列に論じた「重層的な非決定」の先駆性eyck.hatenablog.com、それを継いだ東の批評実践(村上春樹からアニメまでを同じ文体で論じる)が、デリダ的思考と接続して語られているeyck.hatenablog.com。サブカルチャーまで含めた批評の射程において、吉本とデリダ的脱構築の方法論的共鳴を捉えた論考と言える。

  • Yahoo知恵袋「吉本隆明の共同幻想論はデリダ等のポスト構造主義的と言えますか」(質問No.14299294484, 2024年6月9日) – ネット上のQ&Aだが、この中で生成AIによる参考見解が示されており、吉本の共同幻想論について「言語や概念によって構築される現実を相対化し、言語の外部に普遍的な実在は存在しないという点でデリダらのポスト構造主義と通底する」と述べられているdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp。さらに「ただし共同幻想論は言語ゲーム的な解体に終始せず、言語を通じ新たな現実を創造しようとする生産性の重視や、東洋思想(無常観・空)の影響による独自性がある」と指摘されておりdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp、吉本思想の特徴とデリダとの差異も含めて整理されている。必ずしも学術的出典ではないものの、両者の思想上の類似点(言語構築された現実の相対化)を簡潔にまとめたコメントと言える。

  • 吉本隆明「『シボレート――パウル・ツェランのために』書評」(『読売新聞』1990年5月掲載 → ALL REVIEWS再録) – デリダ著『シボレート』(ツェラン論集)の邦訳に寄せた吉本の書評allreviews.jp。吉本はデリダの別の詩人論「エドモン・ジャベスと本の問題」に感銘を受けた経験を述べ、本書でも**「デリダは文字表記を本質におく言語哲学者だが、ユダヤ的主題に入ると深淵を覗く哲学詩人に変貌する」と評しているallreviews.jp。この評言は、デリダの言語観(文字=エクリチュール重視)と思想スタイルを的確に表現したものとして貴重である。また吉本自身がデリダの著作に真摯に向き合い評価を下していた事例であり、日本の思想家によるデリダ理解の一端を示す資料でもある。吉本はデリダのユダヤ性へのこだわり(ジャベスやツェランというユダヤ人詩人への執着)にも言及し、それがデリダの哲学を単なる言語分析に留まらない深みへと導いている点に注目しているallreviews.jp。この書評から浮かび上がるのは、吉本とデリダの間に横たわる詩と哲学、言語と宗教性**といったテーマでの共振であり、両者の批評アプローチの豊かさを物語っている。

以上の文献・情報源は、吉本隆明とジャック・デリダの批評的姿勢や思想上の類似点を日本語で論じたり示唆したりしているものです。それぞれ【 】内に示した番号は、引用箇所への参照を表しています。今回収集した資料から総合すると、吉本隆明とジャック・デリダは「言語が世界を作る」という視点や、既成の権威への懐疑、差異に着目した思考態度などで相通じるものがあり、日本の思想史の中でも両者を関連づけて論じる試みがいくつか見られることが明らかになりました。

参考文献・出典一覧(作者・書名・年など):

  • 合田正人『吉本隆明と柄谷行人』PHP研究所〈PHP新書〉、2011年note.comnote.com

  • easter1916「共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人」(ライブドアブログ, 2011年5月24日)blog.livedoor.jp

  • 松田樹「たった一つの、私のものではない『日本語』――ジャック・デリダ、中上健次、『批評空間』――」『Suppléments』第3号所収、2024年decon.fpark.tmu.ac.jpdecon.fpark.tmu.ac.jp

  • 塚田有那(eyck)「言語の爆発的失敗 東浩紀から吉本隆明『マス・イメージ論』への遡行」(ブログ「paint/note」記事, 2010年6月8日)eyck.hatenablog.comeyck.hatenablog.com

  • Yahoo知恵袋「吉本隆明の共同幻想論はデリダ等のポスト構造主義的と言えますか」(質問投稿日2024年6月9日)におけるAI回答detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

  • 吉本隆明「『シボレート――パウル・ツェランのために』書評」(『読売新聞』1990年5月13日付朝刊に掲載、ALL REVIEWSに再録)allreviews.jp

  • 『共同幻想論』吉本隆明、河出書房新社、1968年

  • 「デリダにおける『現前』」(ブログ「Inside of my submarine」記事, 2021年2月16日)note.comnote.com