2025年8月23日土曜日

フランツ・カフカ『変身』(1915)の着想と文学的背景

 

フランツ・カフカ『変身』(1915)の着想と文学的背景

図:フランツ・カフカ(1883–1924年、1923–24年頃撮影)
フランツ・カフカはプラハ生まれのドイツ語作家で、『変身』は彼の代表作の一つである。1912年に婚約者フリーセ・バウアー宛ての書簡で本作の構想を書き示し、「この物語は少しおぞましい(ein bißchen grässlich)もので、君を本当におびえさせるだろう」と伝えているbritannica.com。翌1915年に雑誌掲載後に単行本化された本作は、発表当時から読者の注目を集め、社会的評価とは無縁に幻想的な語り口で異色の物語として受け止められた。カフカ自身は『変身』を「きわめて不快で、不完全に近い」と評しbritannica.com、完成の過程でも執筆を中断しては再開するという苦労を記している(完成には数週間を要した)。こうした背景からも分かるように、本作はカフカにとって異質かつ強烈な題材であり、その着想から完成まで個人的に深い意味をもっていた。

先行作品と異類同形

人間が動物や昆虫に変身するモチーフは古くから文学に現れる。古代ローマのオウィディウスやアプレイウスの『黄金のろば』、さらにはグリム童話を始めとする民話にも「呪いによって人間が鳥や虫になる」類型が多数登場するscholarsbank.uoregon.edu。これらの物語では、試練を経て主人公が最終的に元の姿に戻る「救済的なハッピーエンド」が定型であり、因果応報が語られるのが通例である。カフカはこの伝統的な寓話世界を踏襲しつつ、結末を意識的に覆している。たとえば、比較対象となる19世紀ロシアのニコライ・ゴーゴリも短編『鼻』(1836年)で高官の鼻が朝起きると消失し、別人格として歩き出すという変身譚を描いているscholarsbank.uoregon.edu。ゴーゴリは妖精的・迷信的な要素を都市生活の風刺に取り入れ、グリム童話的な寓意を「都市的なおとぎ話」に仕立てており、そこでは非人称的で異常な出来事が現実の市民生活と融合している。カフカはゴーゴリのこうした「大都市寓話」の手法を引き継ぎながら、さらに個人心理や社会性を寓意化した。本作冒頭の有名な一文は「ある朝、不安な夢から目覚めると、グレゴール・ザムザは自分が巨大な虫に変身しているのを見つけた」と記され、主人公グレゴールの変身場面を直接描写するtheguardian.com(邦訳では「ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めたとき、自分がベッドの上でみの虫ほどの巨大な虫になっているのを発見した」など)。伝統的な民話・寓話が持つ「最後に人間に戻る救済構造」をカフカは拒否し、むしろ変身したまま終わらない「救済なき物語」を構築したことが、本作を先行作品から一線を画する要因の一つであるscholarsbank.uoregon.eduscholarsbank.uoregon.edu

同時代文学(幻想・怪奇・象徴主義)との関係

カフカの時代には、幻想・怪奇文学が広く読まれていた。ドイツ・ロマン主義期のE.T.A.ホフマンや、アメリカのエドガー・アラン・ポーといった作家が、現実的日常と超自然的恐怖を融和させた短編を書いており、これらの伝統がカフカの想像力にも間接的に影響したとみなされる。しかしカフカ自身はグリム童話や怪奇物語とは異なり、単なる恐怖を描くのではなく、社会や個人心理を背景にした寓話的要素を追求した点で独自性が強い。また当時のヨーロッパ文学潮流では、象徴主義やデカダン派などが内面や夢幻的世界を重視しており、カフカ作品にも夢のような雰囲気や寓意性の濃い描写が見られる。しかし批評家ルネ・ヴェレクは、「象徴主義的な比喩(類推)の手法はカフカには全く見られない」と指摘しencyclopedia.com、カフカの作風は象徴主義とは異質であると論じている。技法的にはむしろ初期モダニズムや表現主義に近く、ウィリアム・バロウズも「カフカの作品のいくつかは表現主義の影響下にある」と評しているen.wikipedia.org。つまりカフカは幻想文学や象徴主義の流れに属しつつも、寓意を直接的・反復的に排し、現実世界との摩擦を強調する作風で知られた。

作品の独創性と評価

『変身』の独創性は、上述の先行物語モチーフや同時代潮流を素材にしながらも、まったく新しい文脈に置いた点にある。カフカは現実的かつ詳細な描写と異常事態の融合を通じて、得体の知れない恐怖の中に社会的・個人的テーマを織り込んだ。評論家スティーヴン・コナーは、本作が「モダニズムの代表的な昆虫テクスト」であるとし、物語全体において昆虫の「形なき存在、表象し難さ」が強調されていると論じているstevenconnor.com。つまり本作では、グレゴールが厳密にどの種の虫なのかは明示されず、むしろ彼の身体が「硬い甲羅(panzer)に覆われたような外観」として描写されるstevenconnor.com。カフカは昆虫への変身を、社会の歯車に組み込まれた個人の自己喪失や疎外の比喩として昇華させ、従来のファンタジーとは一線を画した。さらに、高度に構築された一編の物語としての完成度にも定評がある。グリム童話などでは物語の展開が既存パターンに収束するが、カフカとゴーゴリはいずれも「予測可能な正義的結末」を拒否しscholarsbank.uoregon.edu、むしろ帰結を敢えて曖昧に残して読者に不安を与える。その意味で、本作は「寓話的要素を借りつつ寓意を拒む」独創的なナラティヴであり、発表当時も異彩を放った。

図:バレエ『変身』(ロイヤル・バレエ団)でグレゴール・ザムザ役を演じるエドワード・ワトソン。物語冒頭の有名な一文は「ある朝、グレゴールは自分が巨大な虫になっているのに気づく」という設定を宣言するtheguardian.com

不条理文学との系譜および学術的解釈

『変身』は第二次世界大戦後の不条理文学にも強い影響を及ぼした。作家サミュエル・ベケットはカフカを師と仰ぎ、作家には「表現するものも表現する対象も、表現する力も欲望もないまま、表現しなければならない」状況を語らせているyalebooks.yale.edu。またアルベール・カミュは『シジフォスの神話』(1942年)の巻末ノートで『変身』を引用し「カフカの作品における希望と不条理」と題した論考を付加しているyalebooks.yale.edu。これらからも、本作が人生の無意味さを主題とする不条理文学への先駆であることがうかがえる。学術的解釈は多様であり、寓意のあり方を巡る議論が絶えない。近年の研究では、グレゴールの“昆虫”化は単なる精神的苦悩や病理の比喩ではなく、19世紀末から20世紀初頭の動物観・社会観との関わりで再検討されている例もある。たとえば動物美術や細密図鑑の流行と結びつけた読み解きでは、グレゴールが「害虫(Ungeziefer)」とされる描写は時代的文脈を反映するとも指摘される(昆虫図鑑ブームの存在)jstage.jst.go.jp

さらに作品解釈では、「グレゴールの変身は何の象徴か」という点で論争がある。ある評論家は、グレゴールの“害虫”化を反ユダヤ主義の寓意やオーストリア=ハンガリー帝国崩壊の予兆と読むyalebooks.yale.edu一方、別の評論家は父親との緊張関係を反映するものとするyalebooks.yale.edu。しかしカフカ自身や晩年の解釈者たちは、これら特定の解釈よりも「物語の根底には本質的に意味がない」という視点を重視したyalebooks.yale.edu。すなわち『変身』は「ある決まったメッセージを伝える寓話」ではなく、むしろ世界の不条理と人間存在の空疎さを示す文学として読まれてきた。翻訳上の論点も興味深い。原文の「ungeheuren Ungeziefer」という語は直訳しにくく、英訳では “giant bug” や “monstrous cockroach”、「巨大な害虫」など様々に訳されているtheguardian.com。このようにグレゴールの正確な「昆虫像」をめぐっても議論が続いており、翻訳家の選択によって作品のニュアンスが微妙に変化する場合がある。

まとめ: カフカ『変身』の着想は、グリム童話やゴーゴリら先行物語の要素を下地にしつつも、救済なき結末と個人疎外の寓意を強調する独自の物語世界に昇華されたものであるscholarsbank.uoregon.edustevenconnor.com。同時代の幻想怪奇文学や象徴主義から離れたスタイルながら、不条理文学へとつながる先駆的要素を色濃く持っておりyalebooks.yale.eduyalebooks.yale.edu、学術的には象徴的・社会的解釈から不条理的視点まで様々に論じられている(「無意味性の表現」として読む立場が今日では有力である)yalebooks.yale.edutheguardian.com

参考文献: 森林駿介『ヨーロッパ幻想文学論』(2022)scholarsbank.uoregon.eduscholarsbank.uoregon.eduscholarsbank.uoregon.edu、Henry Sussman A Companion to the Works of Franz Kafkayalebooks.yale.eduyalebooks.yale.edu、W.B. Gooderham「Kafka’s Metamorphosis and its mutations in translation」(Guardian, 2015)theguardian.com他。