2025年8月5日火曜日

日本現代詩の成立と普及の歴史 1

現代詩の起源と概念の成立

日本における「現代詩」とは、広義には20世紀初頭から書かれた新しい形式の詩を指し、特に第二次世界大戦後の詩を意味しますkotobank.jp。明治維新以降、西洋文化の流入に伴い、従来の和歌・俳句や漢詩とは異なる近代的な詩形が模索されました。1882年(明治15年)刊行の詩集『新体詩抄』によって西洋詩の翻訳紹介が始まり、土井晩翠『天地有情』(1899年)など新体詩が誕生しました。これにより日本語の詩は口語表現を取り入れはじめ、20世紀初頭には伝統詩形の形式主義・耽美主義への反省として、より自由で哲学的・日常的なテーマを扱う詩が生まれますja.wikipedia.org。この流れの中で、萩原朔太郎は1917年に画期的な口語自由詩集『月に吠える』を出版し、その率直な感情表現が社会的反響を呼び起こしました。朔太郎は「日本現代詩の父」と称され、彼の詩風は日本詩壇を席巻し、日本における口語自由詩の美学的基盤を築いたと評価されていますsohu.com。以上のように、大正期までに近代詩は大きく発展しましたが、戦前の詩壇では象徴派やモダニズム詩へと深化する一方で難解・技巧化も進み、戦後になって「現代詩」という新たな概念が確立されていきましたja.wikipedia.orgkotobank.jp

第二次世界大戦後、「現代詩」という呼称には単なる年代区分以上の意味が込められました。戦争体験を経た詩人たちは、それまでの近代詩(戦前の詩)の共同体的・観念的な傾向を批判し、個人の内面から社会や思想を見つめ直す詩風を切り開きますja.wikipedia.org。この戦後詩の流れを背景に、「現代詩」という言葉自体が戦前の詩への反発や自己規定を示す概念として定着しました。実際、戦後間もない1949年には詩人・鮎川信夫が評論「現代詩とは何か」を発表し、戦前詩への批判精神を込めて新時代の詩の在り方を問うています(雑誌『詩学』等に掲載)。こうした議論を経て、1950年代には**「現代詩」=戦後の新しい詩**という概念が広く認識されるようになりましたkotobank.jp

昭和初期の詩壇とモダニズム運動

大正末から昭和初期にかけて、日本の詩壇では新傾向の雑誌や同人誌が相次いで創刊され、モダニズム詩運動が盛んになりました。1920年代末には**『詩と詩論』**(1928年創刊)が安西冬衛・春山行夫・三好達治・北川冬彦ら芸術派(モダニズム派)の詩人を結集し、西欧の象徴主義や未来派の詩を積極的に紹介しましたkotobank.jp。『詩と詩論』は1933年まで刊行され、日本詩壇にモダンな感覚と理論的批評をもたらした雑誌として重要です。また、プロレタリア文学の高揚期には、大衆的・社会主義的な詩誌も並行して発行されましたが、モダニズム系の詩人たちは芸術性を追求する場を独自に築きました。

1930年代には**『歴程』**(1935年創刊)が草野心平や中原中也らによって始まり、口語自由詩や象徴詩の完成度を高めましたx.com。『歴程』は詩壇の一大拠点となり、戦時中に一時中断するも1947年に復刊され、戦後も刊行が続く長寿の詩誌となりますx.com。同誌は後に新人詩人の登竜門「歴程賞」(藤村記念歴程賞)を設けるなど、詩壇の伝統を戦後に継承しました。

他方、都市部の若い詩人たちは前衛的な同人誌にも結集しました。『ル・バル (Le Bal)』(1939年創刊)や**『世代』**(1930年代)などは、当時無名だった田村隆一・鮎川信夫・北村太郎ら若手が参加した戦前モダニズム系の同人誌ですameblo.jpwww5d.biglobe.ne.jp。これらの同人誌は商業誌とは別に小規模ながら詩的実験の場を提供し、戦後の現代詩運動を担う人材を育みました。北園克衛は戦前から実験的なタイポグラフィ詩誌『VOU』(ヴォウ)を主宰し、詩と造形芸術を融合させる試みも行っています。このように昭和初期の詩壇は、芸術派モダニズム vs. 大衆・プロレタリア詩という多様な流れが併存し、近代詩の形式と内容を革新する土壌が形成されました。

戦時下の詩誌統合と詩の運命

日中戦争から太平洋戦争の時期、日本の詩壇は国家統制の影響を大きく受けました。1942年には政府の情報局主導で日本文学報国会が発足し、既存の詩人団体はすべて解散・吸収されましたjapan-poets-association.com。さらに1943年末からは用紙統制の名目で文芸雑誌の統廃合が強行され、約200誌あった文芸・詩歌誌は62誌に統合されましたjapan-poets-association.com。詩誌も例外ではなく、1944年6月に詩誌の最終統廃合が実施され、結局『日本詩』『詩研究』の2誌だけが残りましたjapan-poets-association.com。これらは宝文館から発行され、編集長は北村秀雄でしたjapan-poets-association.com。当時、詩人たちは発表の場を奪われ、多くが筆を折るか地下出版に活動を移さざるを得ませんでした。しかし一方で、政府はプロパガンダ目的でラジオや新聞に詩を利用し、一般国民に愛国的な詩を浸透させてもいます。例えば戦時中、朝のラジオで高村光太郎「大いなる日に」や大木惇夫「海原にありて歌へる」等が朗読され、庶民の耳目に詩が触れる機会が連日あったと伝えられますjapan-poets-association.com。ただしそれらは情報局や報道関係者による操作も伴ったもので、純粋な共感とは別問題だったとも指摘されていますjapan-poets-association.com。このように戦時下の詩は、公的には体制迎合の宣伝詩へと収斂し、私的には沈黙や内面への退避を余儀なくされる苦難の時代でした。

とはいえ、戦火の下でも詩作そのものを放棄しなかった詩人たちは存在し、戦争体験を内包した優れた詩を遺しました。終戦直後に登場する**「荒地」「列島」**といった戦後詩派や、石原吉郎の詩業などは、まさに戦中の従軍体験や喪失感を原点として生まれたものですjapan-poets-association.com1945年8月15日の終戦は、日本の詩人たちにとっても大きな転換点となり、戦後に展開される現代詩運動の出発点となりました。