2025年9月23日火曜日

オープンソースの株・トレードシミュレータの例

 

名称 主な特徴 技術スタック / ライセンス等
Jackson-Wozniak / Stock-Market-Simulation 仮想マネーで株の売買ができる、株価変動とニュースイベントを含む完全な模擬市場。時間進行が速められていて、ポートフォリオやインデックス、ETFの取引が可能。 (GitHub) MIT ライセンス。バックエンド・フロントエンドあり。Docker構成あり。 (GitHub)
nikolatechie / trading-simulator web ベース。ユーザ登録、ポートフォリオ表示、株取引、ニュース表示など。フロントエンド/バックエンドあり。 (GitHub) Java Spring Boot(バックエンド)、React.js(フロントエンド)、MySQL。オープンソース。 (GitHub)
FinRL, FinRL-Meta 特にバックテストや強化学習環境として使える。過去データを使って売買戦略の検証/環境構築ができる。 (arXiv) Python ベース。オープンソース。強化学習との統合が重視されている。 (arXiv)
SABCEMM Agent-Based モデルで多数のエージェントを使った市場シミュレーション。経済モデル寄り。 (arXiv) C++。設定ファイルで構成可能。 (arXiv)
DeepMarket / TRADES 高頻度取引や板情報(Limit Order Book)を生成するなど、よりリアルな市場模擬データを作るもの。研究用途。 (arXiv) Python。オープンソースで公開中。 (arXiv)

2025年9月21日日曜日

(銀河ヒッチハイク・ガイド)

 

ステップ読むべき巻おすすめ理由
STEP 1第1巻
The Hitchhiker's Guide to the Galaxy
(銀河ヒッチハイク・ガイド)
映画の基礎になった部分がそのまま詳しく描かれており、ボゴン人、ハート・オブ・ゴールド号、不確実性ドライブ、42などがより深く理解できる。映画で描かれなかった皮肉やギャグも豊富。
STEP 2第2巻
The Restaurant at the End of the Universe
(宇宙の果てのレストラン)
映画でわずかに触れられた「宇宙の果てのレストラン」が本格的に登場。ゼイフォードの過去や、マグラシア星のさらに込み入った背景が明かされる。映画では省略された大ネタ多数。
STEP 3第4巻
So Long, and Thanks for All the Fish
(さようなら、そしてありがとう…)
映画オリジナルだった「アーサーとトリリアンの関係」にやや近い雰囲気が出る。地球が復活したあとの話で、ラブストーリー要素も出てくる。映画の余韻で読むには相性が良い。
STEP 4(興味があれば)第3巻
Life, the Universe and Everything
(宇宙クリケット大戦争)
映画には全く出てこないが、シリーズ中でもっとも奇想天外なSF冒険編。映画をきっかけに「原作はこんなにヘンだったのか」と楽しめる。
STEP 5(マニア向け)第5巻
Mostly Harmless
(ほとんど無害)
原作シリーズの終幕。かなりブラックで救いがないので、映画のノリとは別物。ただし「ヒッチハイク世界観の果て」を知りたくなる人にはおすすめ。

『投影された宇宙』は、1991年にマイケル・タルボットが著した一冊である。

 『投影された宇宙』は、1991年にマイケル・タルボットが著した一冊である。著者は本書において、当時最先端の量子物理学と脳科学、そしてスピリチュアリティを縦横に行き来しながら、世界の根源的構造が「ホログラム」である可能性を探求する。つまり、宇宙とは、物質的な実体ではなく、干渉パターンの中から浮かび上がる情報の再構成であり、現実は心と密接に関わる投影現象であるというのが、彼の提示する壮大な仮説である。

物語は、量子物理学者デヴィッド・ボームの「暗在秩序」の理論から始まる。彼によれば、我々の見ている世界は「顕在秩序」、すなわち可視的・測定可能な現象であり、その背後には、全てのものが非局所的に繋がった目に見えぬ「暗在秩序」が存在するという。ボームにとって、電子同士の相関や量子エンタングルメントは、個々の粒子ではなく、全体が一つのホログラフィックな統一体として振る舞っている証左だった。タルボットはこの視座を、単なる物理理論の枠にとどめず、意識や超常現象にまで拡張する。

そこに登場するもう一人のキーパーソンが、神経科学者カール・プリブラムである。彼は、脳が記憶を保存するメカニズムを探る中で、局所的な損傷では記憶が失われないという奇妙な現象に着目した。たとえば脳のある部分を切除しても、被験者の記憶全体が損なわれるわけではない。この事実は、脳が情報を局所的にではなく全体的に処理している、すなわちホログラムのような構造で情報を格納しているという仮説に彼を導いた。タルボットはボームの宇宙モデルとプリブラムの脳モデルを統合し、「宇宙そのものが巨大なホログラムであり、私たちの脳もまたそれをホログラフィックに解釈している」というビジョンを描き出す。

タルボットはこの枠組みを用いて、従来は「非科学的」とされてきた現象にも理論的な裏付けを与えようとする。テレパシー、予知夢、臨死体験、心霊現象、そして量子場との非局所的な相互作用。こうした現象は、もし宇宙がホログラフィックに構成されているなら、非物質的な要素、すなわち情報や波動が現実を形成する力として十分に存在しうると示唆される。たとえば、遠く離れた親子が同じ瞬間に同じ夢を見る、死にかけた患者が手術中に部屋全体を俯瞰する、というような逸話を、彼は単なる幻想ではなく、宇宙のホログラム性を示す断片として拾い上げてゆく。

また、スタニスラフ・グロフが提唱する変性意識状態、ジョン・C・リリーの感覚遮断タンク実験、そしてカール・ユングのシンクロニシティ(共時性)の理論なども紹介される。グロフは、LSDや呼吸法によって通常の意識状態を越えた体験を報告し、そこには自己と宇宙の一体化や、時間を超越する認識が含まれるという。これらは、ホログラム的な宇宙においては単なる幻覚ではなく、通常の五感では捉えきれない領域と接続した「拡張現実」として再解釈されうる。リリーの研究もまた、自己という存在が脳内に閉じ込められているのではなく、広大な情報フィールドの一部として存在することを示唆する。

そして、そうした概念の集積は、単なる知的興味ではなく、現実に対する理解の根底を揺るがす衝撃を読者にもたらす。もしこの世界が情報の干渉によって生まれたホログラムであるとしたら、私たちが日常的に信じている「物質的な現実」は、意識という投影装置が生み出した幻像に過ぎないかもしれない。そして、夢や幻想、直感や予感は、脳の誤作動などではなく、むしろ根源的な宇宙の「本来の姿」に近づく通路なのではないかとすら思えてくる。

『投影された宇宙』は、科学と精神世界の橋を渡しながら、現実そのものの輪郭を問い直す旅へと読者を誘う。登場する科学者たちは、必ずしもすべてが同じ立場を取っているわけではない。むしろ彼らの研究は、部分的でありながらも現代科学が見落としてきた断片を照らす役割を果たしている。タルボットの叙述は、彼らの成果を巧みに繋ぎ合わせ、まだ名づけられていない全体像の予感を読者に抱かせる。

それは、物質から情報へ、外的観察から内的直観へ、そして分離から全体性へと向かう、一種の知的転回でもある。そしてこの書は、その過程の最前線を描き出した、きわめて先見的なマニフェストである。


歴史的搾取と「原罪」的把握の可能性

 

■ マルクスの搾取論と歴史的構造

カール・マルクスは『資本論』において、資本主義における搾取の仕組みを「剰余価値論」によって説明している。この理論では、労働者は生活の維持に必要な「必要労働」だけでなく、それを超える「剰余労働」を行い、その部分の価値が資本家に帰属する構造が描かれている。契約上は労働者と資本家は自由な労働取引を行っているように見えるが、生産手段を所有する側が剰余価値を取得する点に着目されている。

マルクスの分析では、こうした搾取は資本主義に特有の現象というより、歴史上の様々な生産様式において形を変えて現れてきたものとして整理されることができる。奴隷制、封建制、資本主義といった各段階で、支配と被支配の関係が存在し、それぞれ異なる仕組みで剰余の吸収が行われてきたと説明されることがある。生産様式が社会の構造を形作り、その変化が歴史の展開に関わる可能性についても検討されている。


■ 剰余価値論は「不要な生産」を含む可能性

剰余価値論は、資本主義下での労働が「本来的に必要でない利潤目的の生産」を含んでいる可能性について考察する材料を提供しているとも言える。労働者は自身の生活維持に必要な労働を超えて、利潤を生み出すための追加的な労働を担っている構造を想定することができる。現代の消費社会においては、労働者が自身に必ずしも必要と感じていない財やサービスを生産し、それを消費者として購入するという循環の中に位置付けられる場合もある。


■ 歴史的搾取と「原罪」的把握の可能性

このような歴史的構造を「原罪」の概念になぞらえて理解することも可能である。すなわち、人間社会は剰余を生む傾向を持ち、それをいかに分配するかが社会構成の基本的な課題となりうるという見方である。このように捉えた場合、搾取を絶対的な悪として排除するのではなく、調整や制度設計を通じて管理可能な課題とみなす方向も検討できる。

こうした視点は、20世紀後半以降のポスト・マルクス主義や構造主義、システム理論(たとえばルーマン)などと接続することができる。それは「搾取のない社会」を目標とするよりも、「搾取の在り方を可視化し、制度的に調整可能とする社会」の可能性を考える方向性となる。


■ 闘争から制度設計へ:現代的な整理の可能性

このように、「搾取」を社会の構造条件として捉えることで、対立的な排除ではなく、制度設計による調整を重視する方向が考えられる。現代社会においては、ベーシックインカム制度、労働時間短縮、所得再分配、協同組合的経営などが、その一部として位置付けられる場合もある。

これらはマルクスの階級廃絶という枠組みとは異なるが、剰余価値の構造的側面を意識しつつ、それを制度の中で処理する方法を模索する枠組みとして整理できる可能性がある。


■ 結語:構造の可視化と制度的管理の可能性

マルクスは剰余吸収を構造的暴力として描写し、それに対する闘争の必要性を論じた。一方で、これを宗教的な「原罪」に類するものとして把握するならば、対立の消滅を目指すのではなく、制度的反復と調整による管理の持続性が一つの選択肢となる可能性もある。

搾取は敵として排除すべきものではなく、継続的に管理されるべき条件と捉えることもできる。このような整理はマルクスの考えを否定するものではなく、むしろ彼が可視化した構造的側面を、非暴力的に制度の中で扱う可能性として拡張する試みと位置付けることができる。

シミュレーション仮説

 現代における思考実験は、哲学・科学・SFの境界を越えて、「私たちの現実とは何か?」という問いを多角的に掘り下げる道具となっている。中でも最も刺激的で影響力のあるものの一つが、スウェーデンの哲学者ニック・ボストロムが2003年に提唱したシミュレーション仮説である。これは、高度な文明が十分に進化すると、過去の人類の意識や歴史を完全に再現できるシミュレーションを構築できると仮定し、その上で「もしそうした文明が存在し、それを複数回実行しているならば、我々がその中の一つにいる可能性は非常に高い」という逆転的推論を展開する。この仮説は単なる哲学的ジョークではなく、現実が計算可能な情報構造によって構成されている可能性を提起するものであり、計算理論・量子物理学・人工知能など多くの分野に波及している。

この仮説をめぐるもう一つの注目点は、情報と意識の関係性である。ジョン・サールの「中国語の部屋」思考実験は、コンピュータが意味を「理解」することなく正しい出力を行える状況を描くことで、「情報処理」と「意味理解」の間に決定的な隔たりがあることを示唆する。この議論は、シミュレーション仮説が前提とする「意識の再現可能性」に対する根本的懐疑とつながっている。もし人間の意識が単なる演算の産物ではなく、現実世界に特有の物質的基盤や主観的体験(クオリア)を伴うものであるならば、我々の現実が“ただの”情報処理であるとは言えなくなる。

こうした問いを、哲学だけでなく、現代のフィクション作品は独自の形で表現している。テッド・チャンの短編『あなたの人生の物語』では、異星人の非線形言語を習得することで、人間の時間認識が変化し、未来の出来事が現在と同等に認識されるようになる。これは「観測と言語によって“現実の構造”そのものが変わる」というIUT理論的な洞察と呼応する。またアニメ作品『STEINS;GATE』は、時間の分岐と収束という世界線理論を通じて、個人の選択が果たして“自由”であるのか、それともすでにシミュレートされた経路上に乗っているだけなのか、という実存的な問いを突きつける。

他にも『serial experiments lain』では、ネットワークと現実が融合し、情報の階層構造が現実の重力すら変えていく。これはホログラフィック原理が示す「2次元情報が3次元現象を生み出す」構造と一致しており、現実が階層的・投影的に構築されていることへの直感的理解を促す。一方、数学的世界観からのアプローチとしては、abc予想や望月新一によるIUT理論が示すように、数の背後にはまだ解明されていない巨大な構造が広がっており、それ自体が“宇宙のプログラム”であるかのような側面を帯びている。数学がただの記号遊びではなく、宇宙の深部を記述するための言語であるとすれば、それはまさに、現実がコードで書かれているというシミュレーション的世界観を補強する。

現代の思考実験の価値は、それが「非現実的だから」と切り捨てられるものではなく、“現実をどう定義するか”という問いの形式そのものを問い直すことにある。シミュレーション仮説、ホログラム理論、数理宇宙論、人工知能論――これらを結びつけることは、現代思想における最も包括的かつ挑戦的な営みであり、哲学と科学、創作と現実の境界を越えて、私たち自身の存在の根底に揺さぶりをかけている。


搾取は「原罪」か?その思想史と現代的折り合い

 搾取とは、誰かが他者の生産物の一部を制度的に取得する構造である。マルクスはこの構造を「剰余価値」理論として定式化し、資本主義の本質を搾取に求めた。しかしこの問題意識はマルクス以前から、さまざまな思想家たちの中で断片的に現れていた。

古代ギリシアでは、アリストテレスが高利貸しを「不自然な富の増殖」として批判した。中世キリスト教世界でも、トマス・アクィナスが利子取得を倫理的に否定し、「正当な価格」論を展開した。これらはいずれも搾取に近い問題意識を持っていたが、社会制度の分析や歴史的構造の批判までは踏み込まなかった。

近代に入ると、ロックが「労働による所有の正当化」を唱え、ルソーが私有財産の成立そのものを不平等の起源と批判した。重農主義者やスミス、リカードといった古典派経済学者も、富の分配や労働価値に注目したが、資本と労働の制度的分離を「搾取」とはみなさなかった。

マルクスはこうした先行理論を統合し、「搾取=剰余価値の制度的移転」として体系化。賃労働制そのものが労働力の商品化に基づき、剰余労働が資本家に無償で移転される構造を暴いた。さらに、資本の出発点にある「原始的蓄積」(囲い込みや奴隷制度)にまで遡り、所有の正当性は歴史的暴力に根ざしていると喝破する。ここに「搾取=原罪」という視点がはじめて理論的に確立された。

しかし、20世紀以降の現実社会はこの「原罪」への対処を革命ではなく、制度調整で乗り越えようとした。ケインズは搾取構造には触れず、資本の投資不足による不況と失業を主因と見なし、有効需要政策で雇用を安定化させようとした。制度派経済学も、所有や契約は自然なものではなく制度的構築物ととらえ、交渉力や法制度の調整によって格差を是正する道を模索した。

ここで社会は一つの選択をした。「搾取は構造的に存在するが、それを根絶するよりも、受け入れつつ抑制する制度で折り合いをつける」ことである。これは宗教の原罪論とも類似している。キリスト教がアダムの罪を全人類の原罪としつつも、救済・贖罪・制度を通じて社会秩序を維持しようとしたように、社会は搾取を完全には否定せず、「制度的贖罪」で対処してきた。

現代のWeb3的潮流はこの文脈の延長にある。DAOやトークン、ブロックチェーンといった仕組みは、過去の所有を暴力的に否定せず、むしろ透明性と分散性を高めることで「搾取が起こりにくい制度設計」を志向している。これはマルクス的問題意識を継承しつつ、制度派的柔軟性を持ち、暴力に頼らない改革を模索する現代的アプローチである。

結局、多くの人々は完全な正義ではなく、「生活が成り立ち、取り分がある程度公平なら不満は抑えられる」という現実と折り合いながら生きている。搾取を原罪と認めることは、理論的には重要だが、社会的には「どう折り合いをつけるか」が本質となる。Web3は、その折り合い方を新たな技術と制度で再設計しようとする、21世紀の静かな挑戦なのである。


クリストファー・ダン『The Giza Power Plant: Technologies of Ancient Egypt』(1998)解説

 本書は、アメリカのエンジニア、クリストファー・ダンによって執筆された。著者は航空機製造や精密機械加工の技術者としての経験を活かし、ギザの大ピラミッドを「発電施設」として再解釈する独自理論を展開している。

ダンの中心仮説はこうだ。ギザの大ピラミッドは墓ではなく、巨大な共振エネルギー装置だった。地下からの地震波や地殻振動を取り込み、構造全体で音響共振を発生。これを内部構造(王の間・大回廊など)で増幅・整流し、高周波エネルギーを生成していたと主張する。さらに、王の間の花崗岩ブロックが圧電効果を生み出し、マイクロ波のような電磁波エネルギーを取り出していた可能性を論じる。

著書内では、ピラミッド内部の寸法精度・花崗岩の硬度・加工痕の分析などが技術的証拠として挙げられる。彼は、これほどの精密加工は当時の青銅工具では不可能であり、未知の高度技術が用いられた可能性を示唆する。さらに、王の間の通気孔(いわゆるシャフト)や各部屋の配置が、エネルギーの流れを制御する「工学的設計」だったと読み解く。

本書は一部のオルタナティブ歴史論者・陰謀論支持者から支持を集め、後の「古代エイリアン説」やピラミッド発電説の重要な典拠となった。しかし、正統派の考古学・工学・物理学者からは強い批判を受けている。批判の主な論点は以下の通り:

  • 実際に発電装置として機能する物理的根拠が乏しい。

  • ピラミッド建設技術に既存技術で説明可能な部分が多い。

  • 考古学的文献・碑文が一切この機能を示唆していない。

  • 花崗岩の圧電特性は微弱すぎ、実用出力にならない。

ダン自身は「既存の考古学は技術的視点を軽視している」と主張し、職人としての経験を武器に「物理的にどうやってこれを作ったのか」という点に着目している。

結局のところ『The Giza Power Plant』は、科学的検証よりもロマンと仮説を楽しむ書籍として読むべきと位置づけられている。