2025年8月5日火曜日

日本現代詩の成立と普及の歴史 2

 

現代詩人会の結成と詩壇の制度化

戦後の詩人たちは、自主的なサークル活動のみならず、公式の詩人団体を結成する動きも見せます。1949年12月、北川冬彦・村野四郎・大江満雄・安西冬衛・安藤一郎らが発起人となり、「日本現代詩人会」の創立趣意書が詩人46名に送付されましたjapan-poets-association.comjapan-poets-association.com。呼びかけ人には戦前からの詩人と戦後世代が混在し、同人誌『現代詩』の仲間を中心に幅広い詩人層に呼びかけられましたjapan-poets-association.com。これを受けて1950年1月に日本現代詩人会(現代詩人会)が正式発足し、初回総会が同年12月に開催されていますjapan-poets-association.com。同会は親睦と詩界の発展を目的とした組織で、北川冬彦が初代会長となりました。

現代詩人会は発足直後からさまざまな詩の普及・振興策を打ち出しました。1950年には以下のような事業が計画・実施されていますjapan-poets-association.com

  • 詩人賞の創設: 詩人会の名で新人賞「H氏賞」を新設(第一次選考委員に安藤一郎・北川冬彦・草野心平らが選出)japan-poets-association.com。※H氏賞は萩原朔太郎に因む賞とされ、戦後最も権威ある詩賞の一つに発展しました。

  • アンソロジー刊行: 年刊詩集『日本詩アンソロジー1950年版』、入門書『現代詩十講』、「中学生のための現代詩鑑賞」の編纂・発行japan-poets-association.com教育や普及を視野に入れた出版で、若年層へのアピールを図りました。

  • 講座・イベント開催: 「秋の詩講座」(1950年10月、法政大学で全5回の公開講義)を開催japan-poets-association.com。西脇順三郎や佐藤朔らが英仏米の海外詩壇動向について講演し、一般聴講者に現代詩を紹介しましたjapan-poets-association.com。さらに**「春の詩講座」「詩展」**(詩の展覧会)の開催も1951年に計画されjapan-poets-association.com、視覚的・公共的な詩のイベントにも取り組もうとしました。

これらの活動は、戦後間もない混乱期にもかかわらず詩人たちが詩の社会的地位向上読者層拡大に意欲的であったことを示しています。特にH氏賞(萩原朔太郎賞)は1951年から現在まで継続する伝統的な詩賞となり、新人詩人の登竜門として機能しました。また、核実験に抗議する『死の灰詩集』(1954年、宝文館刊)を編んで出版するなど、詩人会は社会問題への詩的アプローチも行っていますjapan-poets-association.com。このアンソロジー刊行は「政治と文学」を巡る論争を引き起こしつつも、詩人が核兵器への拒絶を詩という形で表明した画期として評価されましたjapan-poets-association.com

1950年代後半になると、現代詩人会だけでなく民間の出版社からも詩人賞が創設され、詩の賞制度が詩壇の新人発掘システムとして定着していきます(例:1955年「中原中也賞」、1967年「高見順賞」など)。こうした賞や団体の存在は、戦後詩壇を一種の制度的な枠組みで支え、詩人同士の交流・切磋琢磨の場を提供しました。

思潮社と『現代詩手帖』:現代詩の中核媒体

1950年代末になると、戦後に林立した多くの詩誌・同人誌の中から、詩壇の中心を担う商業詩誌が現れます。その筆頭が思潮社の月刊誌『現代詩手帖』です。思潮社は小田久郎(詩人でもある)が1956年に創業した詩専門出版社で、創業当初は「世代社」と称し雑誌『世代』を発行していましたja.wikipedia.org。やがて社名を思潮社と改めた後、1959年6月に『現代詩手帖』を創刊し、戦後詩壇に新たな舞台を提供しますja.wikipedia.org。『現代詩手帖』創刊号の編集には小田の同世代である鮎川信夫や谷川俊太郎が関わり、戦後第二世代の詩人たちが投稿欄などを通じて参加しましたbook.asahi.com。創刊当時20代前半だった谷川俊太郎や石原吉郎がこの誌上で頭角を現したエピソードは、今や詩壇の伝説となっていますbook.asahi.com

『現代詩手帖』は創刊の翌年1960年に「現代詩手帖賞」を創設し、一般投稿作品から優秀作を選んで表彰する仕組みを始めましたja.wikipedia.org。この賞からは金井美恵子(後に小説家としても活躍)や伊藤比呂美、近年では若手女性詩人の最果タヒなど、数多くの新人が輩出していますja.wikipedia.org。思潮社はさらに1968年から新書判シリーズ『現代詩文庫』の刊行を開始し、高村光太郎・萩原朔太郎から戦後詩人まで幅広い詩人の詩集・詩選集を廉価版で提供しましたja.wikipedia.org。この詩文庫シリーズは現在まで続くロングセラー企画であり、読者が過去の名作詩に手軽にアクセスできるようにして詩の読者層拡大に貢献しました。

思潮社と『現代詩手帖』は1960年代以降の日本現代詩における中核的存在となります。その過程では、多くの競合詩誌・出版社との切磋もありましたが、次第に『現代詩手帖』が詩人たちにとって最も権威ある発表媒体・情報源として位置づけられていきましたkaken.nii.ac.jp。創刊前後こそ様々な詩誌が乱立しましたが、やがて思潮社および『現代詩手帖』が詩の世界の中心的存在となっていったことが指摘されていますkaken.nii.ac.jp。実際、同誌は戦後詩壇の動向や詩論をリードし、多くの詩人が執筆の場としました。また同誌は単に作品発表の場に留まらず、詩の未来や社会との関わりについて積極的に論争や特集を組み、問題提起を行ってきましたja.wikipedia.org。例えば1991年前後には湾岸戦争をめぐる反戦詩と詩の社会的役割について、藤井貞和・瀬尾育生らによる激しい論争を誌上で展開し、戦後詩人の社会意識を問い直す契機となりましたja.wikipedia.org。このように『現代詩手帖』は同時代の詩と社会を結ぶ論壇として機能し、戦後から現在に至るまで詩壇に多大な影響を及ぼしています。

思潮社以外にも、戦後詩の発展に寄与した出版社・詩誌は少なくありません。小田久郎と同じ神田神保町のビルに机を並べ、ともに戦後詩を興隆させた昭森社(編集者:森谷均)書肆ユリイカ(編集者:伊達得夫)の存在は特筆に値しますbook.asahi.com。昭森社は詩誌『诗学』などを発行し、伊達得夫の書肆ユリイカは詩人全集の刊行や欧米詩の紹介で功績を残しました。これら先達の出版社は夢を抱き詩書出版に情熱を注ぎ、思潮社とともに戦後詩壇の土台を築いたと言えますbook.asahi.com

また、1970年代以降では土曜美術社による月刊詩誌『詩と思想』の創刊(1972年)が重要です。『詩と思想』は全国の主要書店で販売される商業詩誌でありつつ、編集委員を詩人たちが務める同人誌的性格も持つユニークな媒体ですja.wikipedia.org。同誌は「詩と人間を愛するすべての人々のための詩誌」を掲げ、読者会員ネットワークを中核に据えた交流も行っていますx.com。思潮社系の『現代詩手帖』と並んで、『詩と思想』は詩愛好者に支持されるもう一つの主要詩誌として現在まで継続しています。

さらに文芸思想誌**『ユリイカ(月刊エウレカ)』(1959年創刊、青土社)も詩に関する特集を頻繁に組み、戦後詩人論や海外現代詩の紹介などで詩界を刺激してきました。青土社の『ユリイカ』は純文学や批評全般の雑誌ですが、詩の前衛的な試みや詩人の追悼特集なども多く、詩と批評の接点を担っています(※例:2023年8月号で小田久郎追悼特集を掲載kaken.nii.ac.jp)。他にも、地域詩誌やミニコミも数え切れないほど発行されましたが、戦後~現代にかけて特に影響力の大きい詩誌**としては、『現代詩手帖』『詩と思想』『ユリイカ』のほか、『歴程』『コスモス』『季刊現代詩』『VIKING(ヴァイキング)』などを挙げることができます。それぞれの媒体が特色ある詩風・詩人グループを擁しつつも、思潮社とその周辺が中核となって日本の現代詩は発展してきました。

現代詩のプロモーション戦略の変遷

日本の現代詩は、その時々の工夫を凝らしたプロモーション戦略によって読者に届けられてきました。戦後直後は前述のように詩人自らが講座やアンソロジー刊行で啓蒙に努めましたが、その後の時代ごとに媒体や方法が変化しています。

1950年代には、新聞・ラジオ・大学公開講座など公共性の高い場が活用されました。例えば大衆紙に詩を掲載したり、NHKラジオで現代詩を紹介する番組が組まれたこともあります(当時は短歌・俳句のラジオ番組は定番でしたが、詩も教育放送等で扱われました)。前述の現代詩人会主催「詩講座」は大学の講堂に一般聴衆を集めて行われjapan-poets-association.com、詩人自らが海外詩の最新事情を語ることで聴衆の知的好奇心に訴えました。また詩人会は**「詩展」という催しも計画しておりjapan-poets-association.com、詩を視覚展示する試みを模索していたことが分かります。商業ベースでも、詩誌が読者投稿欄を充実させ、新人賞を設けることで「自分も載れるかも知れない」という参加意識を高め、読者を巻き込む戦略をとりました。これは投稿欄マーケティング**とも言える手法で、『現代詩手帖』賞や『詩と思想』の年間新人賞などがまさにその例ですja.wikipedia.orgnote.com

1960-70年代には、現代詩の社会的認知度向上に向けた取り組みとして新聞メディアが大きな役割を果たしました。特に詩人の大岡信は1979年から2007年まで朝日新聞に「折々のうた」という詩歌コラムを連載し、古今東西の名詩を日々紹介しましたja.wikipedia.org。この連載は約29年に及び、全国の読者が新聞を通じて詩に親しむ機会を提供しました。「難解」と敬遠されがちな現代詩も、日常の新聞の中で短い詩と解説が示されることで抵抗感なく受け入れられ、多くの幅広い読者層に詩の魅力を伝える役割を果たしたと評価されていますja.wikipedia.org。大岡信のように詩人自らがマスメディアに発信するケースのほか、国語教科書に現代詩作品(谷川俊太郎「生きる」など)が掲載され学校教育で扱われるようになったことも、プロモーション効果の大きい出来事でした。詩の鑑賞教本や入門書も多数出版され、1970年代には入門的新書『詩への架橋』(大岡信著)などがベストセラーになるなど、詩ブーム的な盛り上がりも一時見られましたja.wikipedia.org

文学賞やイベントも重要なプロモーション手段です。戦後創設された各種の詩人賞(H氏賞、中原中也賞、現代詩手帖賞など)の授賞式・発表会は、詩壇内の行事に留まらず新聞や文学雑誌で報道されることで一般に詩人の名前を広めました。各地の文学館・図書館で詩の朗読会や講演会が開催される機会も増え、詩人が自作を朗読するポエトリー・リーディングの公演も徐々に定着しました。特に1990年代以降、詩の朗読イベントや音楽・美術とコラボレーションした詩のフェスティバルが各地で催されています。日本現代詩人会も毎年「日本の詩祭」という全国大会を主催し、H氏賞や現代詩人賞の贈呈式に加えて講演・コンサート・シンポジウムなどを行っていますjapan-poets-association.com2025年の「日本の詩祭」でも、受賞式のほか講演や朗読会が予定されており、詩を広くアピールする場となっていますjapan-poets-association.com。さらには出版社主催の詩フェスも登場しました。思潮社は近年『かっこよくなきゃ、ポエムじゃない!萌える現代詩入門』刊行記念イベントとして「現代詩フェスティバル 詩の未来へ」(2024年)を開催し、トークショーやサイン会をオンライン配信するなど、新世代に向けたプロモーションを展開していますshichosha.co.jp。このように、21世紀に入りデジタル技術やライブ文化を取り入れた新しい詩の紹介方法が模索されています。

読者層と流通経路の変遷

読者層について見ると、明治・大正期の新体詩~近代詩の読者は主に知識人や学生など限られた層でした。しかし戦後になると、詩を書くこと・読むことが全国各地の一般庶民にも広がっていきます。特に1950年代、日本各地の職場や地域コミュニティで詩のサークル活動が活発に行われました。無名の人々が集まって詩を書き、ガリ版刷りのサークル詩誌を作り、合唱・演劇と並ぶ文化活動の一環として詩作を楽しむ――そうした草の根の詩文化が広範に存在したのですritsumei.ac.jp。当時は現在のように商業ベースの文化消費が中心になる前で、文化を自ら作り出し共有する姿勢が強く、詩もまた生活者の表現手段となっていましたritsumei.ac.jp。この傾向は60年代以降しだいに下火になりますが、一方で学生運動世代やフォークソングなどの影響で若者文化に詩的表現が溶け込む局面もありました。1960年代末には寺山修司らの前衛詩や、吉増剛造・高橋睦郎ら新感覚の若手詩人が登場し、当時の高校生・大学生が影響を受けて詩を書き始める例も多く見られました。現代詩は難解というイメージが付きまといながらも、1970年代までは比較的若い世代の自己表現の媒体として一定の支持を保っていたと言えます。

しかし、1980年代以降はポップスの歌詞やライトノベルなど他の表現形態に若年層の関心が移り、純粋詩への新規読者は減少傾向にありました。この頃になると現代詩の主要な読者は、詩人自身や文学愛好家、大学の国文科・英米文科の学生、教養層の中高年など、比較的専門的・限定的な層に絞られていったようです。それでも細々と詩誌を定期購読するファンは存在し続け、詩誌の投稿欄には各地から投稿作品が送り届けられていました。例えば月刊『現代詩手帖』や『詩と思想』の投稿欄には、学生から社会人・主婦・シニア層まで幅広い年代の投稿者が作品を寄せ、編集部の選考に期待を寄せていました。現代詩手帖賞からは10代の受賞者(最果タヒは19歳で受賞)も生まれており、無名でも才能があれば若くして詩壇デビューできる土壌が維持されていたことが分かりますja.wikipedia.org

2000年代に入ると、インターネットの普及が詩の読者層・書き手層にも新たな動きをもたらしました。ブログやSNS上で自作の詩を発表し合う若者が現れ、従来の詩壇に属さないオンライン詩人コミュニティが形成されたのです。Twitterなどでは「#詩」「#ポエム」タグで詩作を投稿し合う文化も生まれ、ネット発の詩集が出版される例もありました(最果タヒも当初ブログ等で注目された一人です)。もっとも、こうしたオンライン詩は既存の詩壇からは離れた場所で消費される傾向が強く、従来の現代詩雑誌の読者とはあまり交わらない新しい層と言えるでしょう。近年では、詩的な感性をもつ若い作詞家・ラッパー・映像作家などが台頭し、詩と他ジャンルの境界が曖昧になりつつあります。その中で、ナナロク社(2008年創業)のように詩集やエッセイをお洒落な装丁で刊行し、若い読者に支持されている新興出版社も出てきました。実際、近年書店の詩コーナーは再び存在感を増しており、中でもナナロク社は若い読者層から熱い支持を集める版元として注目されていますworksight.substack.com。同社刊の谷川俊太郎や最果タヒの詩集は、若い世代にも手に取られやすいデザインとSNS映えする装丁で、新たな詩ファンを開拓しています。

流通経路についても、時代により大きく変化しました。戦後直後は紙不足もあり、詩集や詩誌は小部数を同人や有志で回し読みしたり、郵送で購読者に届けることが多かったようです。地方在住の詩人・読者は、東京の出版社に直接手紙を送り現金書留で定期購読する、といった形で詩誌を入手していました。当時は大手取次を通すほど部数が出ない雑誌も多く、通信販売・直販が重要な流通手段でした。一方、思潮社『現代詩手帖』は創刊当初から取次コードを取得し、全国の書店で販売されましたja.wikipedia.org。高度成長期になると大都市の大型書店には文学雑誌コーナーが整備され、詩誌も常備されるようになります。1970年代には、東京・神田や大阪・梅田の大書店で主要詩誌が平積みされ、詩集も新刊が並ぶなど、書店店頭流通が定着しました。また、純文学系の総合雑誌(『文學界』『群像』など)にも詩の欄や特集が設けられ、一般読者が目にする機会もありました。

しかしバブル崩壊以降の出版不況により、書店店頭から詩誌・詩集が姿を消しがちになります。取次経由で配本しても売れ残ることが多く、小さな書店では詩集は注文制になるなど、90年代以降は流通面で現代詩は苦戦しました。そうした中で、専門出版社は定期購読者の維持に力を入れ、郵送による年間購読やバックナンバー通販に注力します。さらに2000年代にはインターネット通販が普及し、**オンライン書店(AmazonやFujisan.co.jp等)**で詩誌・詩集を購入できるようになりました。たとえば富士山マガジンサービスでは『現代詩手帖』『詩と思想』の定期購読が可能で、送料無料で読者に届けられていますfujisan.co.jpamazon.co.jp。電子書籍化の波は小さいながら詩集にも及び、一部の新鋭詩人の作品集はKindle版で販売される例もあります。また、企業による文化情報発信として、資生堂のウェブマガジン『花椿』が「今月の詩」を連載するなど、デジタル媒体上で詩を掲載・頒布する試みも見られますnote.com

総じて、現代詩の流通経路は同人内流通→書店流通→ネット通販・電子媒体へと広がり、多様化してきました。近年ではリアル書店での詩コーナー復活を目指し、独立系書店が詩集の品揃えを増やしたり、詩の朗読イベントを店内で催すケースもあります。例えば東京・下北沢の本屋B&Bでは若手詩人を招いたイベントが行われ、オンライン配信で全国から参加できるよう工夫されていますshichosha.co.jp。コロナ禍を経てオンラインイベントが一般化したことも、地方の詩愛好者が最新の詩イベントにアクセスできる利点となりました。

おわりに:主要な詩誌・出版社の役割と現状

日本の現代詩は、この百数十年で起源から成熟、そして普及のためのさまざまな試みを経てきました。その歩みの中で、詩誌や出版社、編集者の果たした役割は極めて大きいと言えます。明治期の新体詩を定着させた先駆者たちから始まり、大正・昭和初期の雑誌『詩と詩論』『歴程』によるモダニズムの紹介、戦後の同人誌『荒地』や『コスモス』による詩的復興、そして思潮社『現代詩手帖』を中心とする詩壇の構築まで、常に中心に媒体とそれを支える編集者が存在していました。戦後において最も影響力を持った詩誌はやはり『現代詩手帖』であり、小田久郎をはじめとする思潮社の編集者たちの情熱が多くの詩人を世に送り出しましたbook.asahi.comja.wikipedia.org。その陰には昭森社・書肆ユリイカなど盟友的な出版社の存在や、北村勇・遠丸立ら無名の編集同人の努力もありました。また、日本現代詩人会のような組織や、H氏賞・中也賞といった賞も詩の価値を社会に提示する装置として機能し、詩を書く人・読む人の裾野を広げてきましたjapan-poets-association.com

現代では、一部の大型書店やオンライン書店で詩誌・詩集を容易に入手できるようになり、SNS上で詩が話題になることも出てきています。若い世代にも人気のある谷川俊太郎や最果タヒの詩集が売れ、新人詩人が次々登場している状況は、細々とながらも現代詩が生き続けている証でしょう。ナナロク社など新興の出版社がファン層を開拓しworksight.substack.com、思潮社『現代詩手帖』もWEBサイトやツイッターを通じて情報発信を強めています(同誌は創刊から60年以上経た2025年現在も月刊刊行が続いていますfujisan.co.jp)。さらに日本現代詩人会は詩祭や機関誌『現代詩年鑑』で活動を継続し、各地の詩人クラブも健在です。

このように、日本の現代詩は常に媒体と共にありました。明治の詩人たちが雑誌に集ったように、戦後の詩人たちは詩誌・出版社・団体に集い、互いに作品を磨き発表してきたのです。その歴史を振り返ると、現代詩の隆盛期を支えたのは『現代詩手帖』をはじめとする幾つかの主要詩誌と、それを取り巻く出版社・編集者の存在であったことが分かります。特に思潮社の功績は大きく、詩誌刊行、新人賞創設、詩文庫シリーズ発行、女性詩誌創刊など多方面から詩壇を牽引しましたja.wikipedia.orgja.wikipedia.org。一方で、草の根の同人誌文化や職場詩誌のような市井の詩も歴史を彩っておりritsumei.ac.jp、そうした底流があってこそ詩は生き延びてきたとも言えるでしょう。

商業的には決して大きな市場ではない現代詩ですが、時代ごとの媒体の努力と工夫によって読者に届けられ、細く長く読み継がれてきました。詩の言葉は大量消費されるものではなくとも、人々の精神に深く作用し得るものです。今後も出版社・編集者たちの創意工夫により、新たなプロモーションや媒体が現れ、次世代の読者層へ現代詩が受け継がれていくことが期待されます。戦後80年を迎えた詩壇はなお問いかけます――「これからの詩の役割は何か?」ja.wikipedia.org。その問いに応えるように、詩誌や詩人たちはこれからも変化する媒体を通じて言葉の力を発信し続けるでしょう。

参考資料:

上記出典に基づき、年代順の事項や詩壇の動向を整理しました。現代詩の歩みは決して平坦ではありませんでしたが、それでもなお脈々と受け継がれていることが理解できるかと思います。現代詩というジャンルは、小規模ながらも確実に文化の一角を占め、日本語表現の可能性を追求し続けているのです。

日本現代詩の成立と普及の歴史 1

現代詩の起源と概念の成立

日本における「現代詩」とは、広義には20世紀初頭から書かれた新しい形式の詩を指し、特に第二次世界大戦後の詩を意味しますkotobank.jp。明治維新以降、西洋文化の流入に伴い、従来の和歌・俳句や漢詩とは異なる近代的な詩形が模索されました。1882年(明治15年)刊行の詩集『新体詩抄』によって西洋詩の翻訳紹介が始まり、土井晩翠『天地有情』(1899年)など新体詩が誕生しました。これにより日本語の詩は口語表現を取り入れはじめ、20世紀初頭には伝統詩形の形式主義・耽美主義への反省として、より自由で哲学的・日常的なテーマを扱う詩が生まれますja.wikipedia.org。この流れの中で、萩原朔太郎は1917年に画期的な口語自由詩集『月に吠える』を出版し、その率直な感情表現が社会的反響を呼び起こしました。朔太郎は「日本現代詩の父」と称され、彼の詩風は日本詩壇を席巻し、日本における口語自由詩の美学的基盤を築いたと評価されていますsohu.com。以上のように、大正期までに近代詩は大きく発展しましたが、戦前の詩壇では象徴派やモダニズム詩へと深化する一方で難解・技巧化も進み、戦後になって「現代詩」という新たな概念が確立されていきましたja.wikipedia.orgkotobank.jp

第二次世界大戦後、「現代詩」という呼称には単なる年代区分以上の意味が込められました。戦争体験を経た詩人たちは、それまでの近代詩(戦前の詩)の共同体的・観念的な傾向を批判し、個人の内面から社会や思想を見つめ直す詩風を切り開きますja.wikipedia.org。この戦後詩の流れを背景に、「現代詩」という言葉自体が戦前の詩への反発や自己規定を示す概念として定着しました。実際、戦後間もない1949年には詩人・鮎川信夫が評論「現代詩とは何か」を発表し、戦前詩への批判精神を込めて新時代の詩の在り方を問うています(雑誌『詩学』等に掲載)。こうした議論を経て、1950年代には**「現代詩」=戦後の新しい詩**という概念が広く認識されるようになりましたkotobank.jp

昭和初期の詩壇とモダニズム運動

大正末から昭和初期にかけて、日本の詩壇では新傾向の雑誌や同人誌が相次いで創刊され、モダニズム詩運動が盛んになりました。1920年代末には**『詩と詩論』**(1928年創刊)が安西冬衛・春山行夫・三好達治・北川冬彦ら芸術派(モダニズム派)の詩人を結集し、西欧の象徴主義や未来派の詩を積極的に紹介しましたkotobank.jp。『詩と詩論』は1933年まで刊行され、日本詩壇にモダンな感覚と理論的批評をもたらした雑誌として重要です。また、プロレタリア文学の高揚期には、大衆的・社会主義的な詩誌も並行して発行されましたが、モダニズム系の詩人たちは芸術性を追求する場を独自に築きました。

1930年代には**『歴程』**(1935年創刊)が草野心平や中原中也らによって始まり、口語自由詩や象徴詩の完成度を高めましたx.com。『歴程』は詩壇の一大拠点となり、戦時中に一時中断するも1947年に復刊され、戦後も刊行が続く長寿の詩誌となりますx.com。同誌は後に新人詩人の登竜門「歴程賞」(藤村記念歴程賞)を設けるなど、詩壇の伝統を戦後に継承しました。

他方、都市部の若い詩人たちは前衛的な同人誌にも結集しました。『ル・バル (Le Bal)』(1939年創刊)や**『世代』**(1930年代)などは、当時無名だった田村隆一・鮎川信夫・北村太郎ら若手が参加した戦前モダニズム系の同人誌ですameblo.jpwww5d.biglobe.ne.jp。これらの同人誌は商業誌とは別に小規模ながら詩的実験の場を提供し、戦後の現代詩運動を担う人材を育みました。北園克衛は戦前から実験的なタイポグラフィ詩誌『VOU』(ヴォウ)を主宰し、詩と造形芸術を融合させる試みも行っています。このように昭和初期の詩壇は、芸術派モダニズム vs. 大衆・プロレタリア詩という多様な流れが併存し、近代詩の形式と内容を革新する土壌が形成されました。

戦時下の詩誌統合と詩の運命

日中戦争から太平洋戦争の時期、日本の詩壇は国家統制の影響を大きく受けました。1942年には政府の情報局主導で日本文学報国会が発足し、既存の詩人団体はすべて解散・吸収されましたjapan-poets-association.com。さらに1943年末からは用紙統制の名目で文芸雑誌の統廃合が強行され、約200誌あった文芸・詩歌誌は62誌に統合されましたjapan-poets-association.com。詩誌も例外ではなく、1944年6月に詩誌の最終統廃合が実施され、結局『日本詩』『詩研究』の2誌だけが残りましたjapan-poets-association.com。これらは宝文館から発行され、編集長は北村秀雄でしたjapan-poets-association.com。当時、詩人たちは発表の場を奪われ、多くが筆を折るか地下出版に活動を移さざるを得ませんでした。しかし一方で、政府はプロパガンダ目的でラジオや新聞に詩を利用し、一般国民に愛国的な詩を浸透させてもいます。例えば戦時中、朝のラジオで高村光太郎「大いなる日に」や大木惇夫「海原にありて歌へる」等が朗読され、庶民の耳目に詩が触れる機会が連日あったと伝えられますjapan-poets-association.com。ただしそれらは情報局や報道関係者による操作も伴ったもので、純粋な共感とは別問題だったとも指摘されていますjapan-poets-association.com。このように戦時下の詩は、公的には体制迎合の宣伝詩へと収斂し、私的には沈黙や内面への退避を余儀なくされる苦難の時代でした。

とはいえ、戦火の下でも詩作そのものを放棄しなかった詩人たちは存在し、戦争体験を内包した優れた詩を遺しました。終戦直後に登場する**「荒地」「列島」**といった戦後詩派や、石原吉郎の詩業などは、まさに戦中の従軍体験や喪失感を原点として生まれたものですjapan-poets-association.com1945年8月15日の終戦は、日本の詩人たちにとっても大きな転換点となり、戦後に展開される現代詩運動の出発点となりました。