以下に、『最後の親鸞』について思想的・哲学的な解釈や分析を行っている長文記事をまとめます。それぞれタイトル・リンク・著者・内容要約を示しました。
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第23回・飯田橋読書会の記録:『最後の親鸞』(吉本隆明)/『歎異抄』(親鸞) – 著:三津田治夫(本とITを研究する会ブログ)
吉本隆明の評伝『最後の親鸞』と原典『歎異抄』を題材にした読書会の記録記事。参加者たちは、親鸞が「理解のジレンマ」を乗り越えて宗教を原点に立ち返らせ、人々に「信じ切ること」のフレームワーク(枠組み)を提示した点を議論していますtech-dialoge.hatenablog.comtech-dialoge.hatenablog.com。難解になり権力化した仏教教義を徹底的に解体し、誰もが理屈抜きで信に至る境地まで平易化した親鸞像を描き出し、宗教本来の役割を大衆の側に取り戻したという見解が示されています。吉本隆明が描く“最後の親鸞”の革新性を、現代の我々が初心を忘れることとの対比で語る内容です。 -
『最後の親鸞』/吉本隆明(関内関外日記) – 著:goldhead
個人ブログによる書評・思想考察記事。筆者は本書を夢中で読んだ体験を綴りつつ、吉本隆明が親鸞思想を推し進めた先にある逆説に迫っている点を評価しています。すなわち、「絶対他力」を極限まで追究すると、信も不信もない領域に至り、宗教や信仰そのものが解体されてしまうのではないかという問いに対し、『最後の親鸞』はまさにその点を論じた書であると述べられていますgoldhead.hatenablog.com。吉本は親鸞が<信>そのものを解体していく過程を描いており、その読み解きに筆者自身も大きな刺激を受けたと記しています。専門的知識がなくとも感じ取れる宗教思想の深奥に触れたエキサイティングな読書体験が語られています。 -
書籍紹介:『最後の親鸞』 – 著:池渕石材(奈良の石屋のブログ)
石材店のブログながら内容は非常に踏み込んだ書評エッセイ。吉本隆明による親鸞論の核心を丁寧に紹介・分析しています。浄土真宗の要である他力本願について、「もし阿弥陀仏の他力が絶対ならば、念仏を称える行為すら僅かな自力ではないか」という疑問を起点に、他力の徹底が宗教不要の地点にまで至る逆説を指摘しますameblo.jp。吉本はまさにこの点に親鸞思想の神髄を見出し、親鸞が考えた「〈信〉」とは何かを緊張感をもって論じていると述べていますameblo.jp。易行(念仏称名)が実は至難の行であり、信なきところで易行を行う困難さを洞察した親鸞像を描いた吉本の議論は、正統教学からの異論はあれど思想的読みとして非常に面白い、と筆者は評価しています。宗教の極北において宗教を超えてしまうという逆説的テーマに強く刺激を受けたと結んでいます。 -
絶対他力の向こう側に至った「最後の親鸞」——吉本隆明『最後の親鸞』を読む – 著:そんそん(note)
オンラインプラットフォームnoteに掲載された長文の思想解説記事。吉本隆明の文章や『最後の親鸞』の内容を詳細に引きつつ、親鸞思想の構造を分析しています。親鸞が強調した〈契機〉(業縁)と〈不可避〉の論理を手がかりに、念仏=信心の解体に至る思考過程を追究しています。記事によれば、吉本は親鸞が「念仏すれば往生できる」という因果関係(自力による救済)さえ解体し、絶対他力をも相対化・越境した先に「最後の親鸞」の姿を見出したと述べますnote.com。それは、親鸞が自らの思想を極限まで推し進めた結果、〈信〉そのものを問い直し解体せざるを得なくなった境地であり、吉本はそれを「浄土教理の極北」と表現していると解説しています。スピノザの汎神論などとも比較しながら、親鸞思想の現代的意義を読み解く骨太な論考です。 -
akiさんとの対話「吉本隆明と親鸞さん。」 – 著:eminus(ダウンワード・パラダイス:gooブログ)
ブログ管理人と読者によるコメント対話形式で展開される哲学・思想談義の中の一篇。読者からの指摘を受けて、筆者は吉本隆明の親鸞解釈について自身の考えを述べています。吉本隆明が「親鸞は大衆のためにぎりぎりまで宗教を解体した」と述べている点に着目しblog.goo.ne.jp、信仰の側に立てない俗人である自分たち(=《非-信》の側)にとって、その言葉がいかに腑に落ちるかを語ります。つまり宗教を極限まで世俗化・解体した親鸞像を提示する吉本の語りによって、信仰を持たない者でも親鸞にリアリティを感じられるというのです。一方でそれは正統な信徒から見れば異端的解釈であり得ることも承知しつつ、信と不信の架橋という大きなテーマへのヒントとして吉本親鸞論を捉え直しています。対話形式ながら、信仰と思想の関わりをめぐる鋭い洞察が含まれた記事です。 -
書評:『思想の危険について―吉本隆明のたどった軌跡』(田川建三 著) – 評者:橋爪大三郎(ALL REVIEWS掲載)
社会学者・橋爪大三郎による書評記事で、田川建三『思想の危険について―吉本隆明のたどった軌跡』を論じています。この中で田川氏が指摘する吉本隆明の親鸞論への批判が紹介されています。田川氏は、吉本の『最後の親鸞』が「宗教者としての親鸞」の実像に基づかず、吉本自身の思想的境遇(知識人として大衆から乖離してしまった焦燥)を勝手に投影したものに過ぎない点が問題だと述べるallreviews.jpと橋爪氏はまとめます。すなわち、吉本は自らが大衆に“なりきれない”もどかしさを親鸞に仮託して論じており、そこに恣意があるという批判です。この書評では、吉本思想全体の転換点として『最後の親鸞』と『共同幻想論』が挙げられている点にも触れられ、吉本隆明の親鸞解釈が戦後思想史の中でどのように評価され得るかについて示唆を与えています。橋爪氏自身は田川氏の論には一部肯定しつつ概ね批判的ですが、吉本の親鸞論が論争的テーマであることがうかがえる内容になっています。