2025年10月13日月曜日

こうして「静かな世界」は幕を閉じ、日本は30年ぶりに“価格のある金利”を取り戻した。

 1990年代初頭のバブル崩壊以降、日本は長期にわたり低成長・低インフレに苦しみ、金利は世界で最も低い水準に張り付いた。ゼロ金利政策(1999年)と量的緩和(2001年)は「デフレ克服」を掲げつつも恒常化し、長期金利は1%を割り込んだ。2013年の黒田総裁による異次元緩和は国債大量購入を伴い、2016年の「長短金利操作(YCC)」導入で10年金利はゼロ%付近に固定された。30年債も1%を下回る異例の水準で推移し、これが株価・不動産価格を押し上げ、国債費を低く抑える「静かな世界」の基盤となった。

しかし2022年以降、海外でインフレが急加速し、日銀の政策だけが世界潮流から取り残された。YCC下で金利上限を抑え込むための「指値オペ」は市場機能を歪め、国債市場の流動性は低下した。2022年12月には許容幅を±0.25%から±0.5%へ拡大し、2023年には1.0%を事実上の上限とするなど“弾力化”が進む。2024年3月、ついにマイナス金利が解除され、YCCも終了。日銀は短期金利0〜0.1%の誘導へ転じ、超長期ゾーンの利回りは市場の判断に委ねられた。

そして2025年秋、30年国債利回りは3.3%台に達した。これは1990年代初期以来の高水準であり、金利抑圧の時代が終焉した象徴といえる。背景には、財政拡張的な政策観測、国債増発への懸念、賃金上昇による粘着的インフレ期待、世界的な長期金利上昇がある。長期金利の上昇は、企業の割引率を押し上げ資産価格を下押しする一方、年金・保険の運用利回りには追い風となる。政府にとっては利払い費増大という新たな制約が生まれ、金融政策と財政政策の緊張関係が再び顕在化する。

こうして「静かな世界」は幕を閉じ、日本は30年ぶりに“価格のある金利”を取り戻した。市場は国債の需給、財政、成長への期待・懸念を直接反映し始め、金利が経済の言語として再び意味を持つ時代に入ったのである。


「余ったぶんが企業のもうけ」は、学術的にはマルクスの基本定理(FMT)の中身です。すなわち、(線形生産の枠で)労働が生む付加価値が賃金を上回る=余りが出る(“搾取”>0)なら、経済全体で正の利潤率が成立し、逆も成り立つ——という同値関係を厳密に示した命題です(森嶋→ローマーの系譜)。

 「余ったぶんが企業のもうけ」は、学術的にはマルクスの基本定理(FMT)の中身です。すなわち、(線形生産の枠で)労働が生む付加価値が賃金を上回る=余りが出る(“搾取”>0)なら、経済全体で正の利潤率が成立し、逆も成り立つ——という同値関係を厳密に示した命題です(森嶋→ローマーの系譜)。viiper.at+1 一方で、置塩定理は別の主張で、実質賃金が一定のまま費用削減型の新技術が採用されるなら、新しい均衡では一般利潤率が上昇すると証明します。ここでは「余り=もうけ」の存在同値ではなく、技術革新と利潤率の比較静学を述べている点が違いです。Wikipedia+1 これらはいずれもスラッファの価格論(長期には一様利潤率が分配パラメータとして現れる)を背景に整理され、利潤率は直観的に**資本の平均利回り(利子率に相当)**と読めます。ianwrightsite.files.wordpress.com+1 なお近年は、置塩の賃金一定を緩めた拡張や、FMTの定義・均衡概念を精査する再検討も進み、条件次第で結論が変わり得る点も示されています。arxiv.org+1


数学物理における「斜交(oblique)」とは、直交(orthogonal)ではない座標系や基底を指し、相互干渉・非独立性を意味する。

 数学物理における「斜交(oblique)」とは、直交(orthogonal)ではない座標系や基底を指し、相互干渉・非独立性を意味する。直交座標はユークリッド的な平坦空間を前提とするが、斜交座標では軸が傾き、計量テンソル 

gμνg_{\mu\nu} の非対角成分が現れる。これは、空間が曲率をもち、観測者によって時間や距離の関係が変化することを表す。すなわち、斜交は「曲がった空間」や「非慣性系」の数学的兆候であり、一般相対性理論においては重力そのものを意味する。たとえば非慣性系では時間軸と空間軸が混ざり g0i0g_{0i} \neq 0 となり、時間と空間が直交しない。量子力学でも非エルミート系では固有状態が直交せず、左右固有ベクトルが「双直交(biorthogonal)」関係をなす。これにより、非保存性や不可逆性が表現される。また、場の理論や微分幾何では、斜交座標が電磁場や重力場の結合を記述する。トーションやゲージ接続はこの非直交成分に対応する。要するに、斜交とは観測者が空間と独立でいられない状態、すなわち「観測が空間を変形する」ことの数理的形式であり、主体と世界の相互干渉を表す構造である。吉本隆明の表出理論における「指示と表出の非直交性」は、この物理的斜交と同型的である。

アインシュタインの理論は、重力を「力」ではなく時空の曲率として説明する点で、勾配理論的である。

 アインシュタインの理論は、重力を「力」ではなく時空の曲率として説明する点で、勾配理論的である。一般相対性理論では、計量テンソル 

gμνg_{\mu\nu} の勾配(二階微分)が曲率テンソルを生み、これが重力場を構成する。特殊相対性理論でも、物理量の保存則 μTμν=0\nabla_\mu T^{\mu\nu}=0 により、すべての変化が勾配として捉えられる。哲学的には、時間・空間・質量などの存在は絶対的ではなく、相互の関係(勾配)として定義される。したがって、アインシュタインの理論は「関係の勾配構造」としての宇宙像を提示したと言える。

リディアンクロマチックコンセプトと吉本隆明の表出理論はいずれも、固定的な規範を拒み、中心の設定によって場の秩序を再構成する理論である。

 リディアンクロマチックコンセプトと吉本隆明の表出理論はいずれも、固定的な規範を拒み、中心の設定によって場の秩序を再構成する理論である。リディアン中心(F♯)が音高間に重力勾配を生むように、表出主体は言語空間に心理的・社会的な力場を形成する。両者は独立した軸を持ちながらも、要素同士が干渉しあう「斜交」構造を重視し、転調や文脈転換によって意味や響きが生成される。LCCが音の重力理論なら、吉本は言葉の重力理論であり、いずれも「自由と秩序」を両立する生成的フィールドを描く。


平均律とApple IIの色表現は、同じ「滲みの技術」で結ばれている。

 平均律とApple IIの色表現は、同じ「滲みの技術」で結ばれている。平均律は純正律のように倍音比に忠実ではなく、各音の周波数をわずかにずらし、十二音を等間隔に配置する。このわずかな歪みは、調性の純度を犠牲にする代わりに、どの調にも自由に転調できる可動性をもたらした。音楽の世界を均一な地図に写す──それはまるでメルカトル図法が地球を歪めて描くような操作である。音は完全ではなくなるが、世界はつながる。その歪みを聴覚的に感じるとき、私たちはそれを「滲み」と呼ぶほうが近い。

Apple IIの色も同じ構造を持つ。正確なRGBではなく、NTSC信号の副作用によって偶然に色を得ていた。走査線の干渉がもたらす色のにじみは、計算された錯覚であり、物理的精度よりも「表示できること」「動くこと」を優先した設計だった。純度を捨てて柔軟さを得る──平均律と同じである。どちらも理論の理想をわずかに崩し、その歪みを感覚的な連続性として受け入れることで、世界を滑らかに繋ぐ。平均律の響きもApple IIの色も、滲みの中に人間的な創造の自由を宿している。


2025年10月12日日曜日

熱は温度差に押されて、高温から低温へと移動します。エントロピーは増え、やがて全体がバランスに近づきます。

 熱は温度差に押されて、高温から低温へと移動します。エントロピーは増え、やがて全体がバランスに近づきます。資本も同じように考えられます。お金は利回りの低いところから高いところへ移り、競争が産業全体の利潤率を共通の水準へと押しならします。「最大エントロピー」という考え方も有用です。一定の制約がある中で、偏りの少ない全体パターンに近づく――市場が統計的な均衡を見つけていくイメージです。

ただし、これは厳密な物理法則ではありません。実際に均されやすいのはリスク調整後の期待収益です。参入・退出コスト、制度やルール、独占力、情報の不均衡、与信の制約、技術変化や需要の移り変わりなどが、この調整を遅らせたり歪めたりします。時間スケールも異なります。熱の拡散は物理定数に従いますが、資本の流れは制度・情報・信用に依存するため、超過利潤がしばらく残ることもあります。さらに経済には厳密な「保存則」がなく、信用創造や創造的破壊が前提そのものを変えていきます。