光合成や酵素反応の研究から、生命系がナノメートルスケールの「小さな部品レベル」では量子コヒーレンスやトンネル効果をうまく利用していることが分かりつつあります。光合成アンテナの中でのエネルギー伝達や、酵素反応での電子・プロトン移動などは、極めて短時間かつ局所的とはいえ、量子ゆらぎを性能向上に使っている良い例だと考えられています。
脳も同じタンパク質と水のかたまりですから、シナプス内や受容体タンパク質などの「超ミクロな場面」で同種の量子効果が起こりうること自体は、ごく自然な想定です。この意味で「脳内にも局所的な量子現象はありうる」はかなり穏当な主張です。ただし、それはあくまで化学反応の細部の話であって、「脳機能の本質が量子計算である」とまでは言っていません。
ペンローズとハメロフの Orch OR 仮説は、ここからぐっと踏み込みます。ニューロン内部の微小管のチューブリンを量子ビットとみなし、それらが大規模な量子重ね合わせ状態を作り、その波動関数の崩壊が「一瞬の意識経験」に対応する、という大胆な図式です。さらにその量子状態が脳全体にオーケストラのように広がる、と想定します。
しかし、三十七度前後の温かくノイズだらけの脳内で、そんな大規模な量子コヒーレンスをミリ秒以上も保つのは、現在のデコヒーレンス理論から見るとほとんど不可能に近いと計算されます。そのため、局所的な量子効果の存在は多くの研究者が認めつつも、「脳全体が量子コンピュータとして働き、意識を生み出す」という Orch OR 型の主張は、証拠が乏しい少数派の仮説という位置づけにとどまっています。
光合成アンテナや酵素反応で観測されている量子コヒーレンスは、起きている「場所」と「時間」がきわめて限定されています。舞台はタンパク質一個レベル、サイズでいうと数ナノメートルです。1ナノメートルは 10⁻⁹メートル、身長1.7メートルの人間を東京から大阪までの距離に引き伸ばすと、その中の数ミリ程度しかないスケールです。そこで保たれる量子コヒーレンスの寿命は、おおむね 10⁻¹³〜10⁻¹²秒ほどと見積もられています。1秒を地球一周の旅行にたとえるなら、その中の数センチだけ進んだ程度の短さです。
一方、脳の情報処理はまったく別のスケールで動いています。ニューロンの細胞体は直径およそ10マイクロメートル、軸索はミリメートルから数十センチ、脳全体はおよそ10センチのかたまりです。時間スケールも、スパイク発火が1ミリ秒前後、知覚や判断は0.1〜1秒といったオーダーで進行します。つまり、量子コヒーレンスの時間(10⁻¹³秒)と神経活動の時間(10⁻³秒)の間には、約10¹⁰倍ものギャップがあり、空間的にもナノメートルの点から10センチの塊まで、1万×1万倍以上のスケール差があります。
この「空間で数桁、時間でさらに十桁」という隔たりに加え、脳は37度前後の温かく水分と電荷ノイズに満ちた環境です。量子状態を長く保つには、極低温や真空、電磁的な遮蔽などが必要なのに、脳内はその逆条件に近い。したがって、ナノスケールの局所的な量子効果やトンネルは十分ありえるとしても、それが脳全体にわたりミリ秒以上保たれる量子相関として統合される、というシナリオは、サイズと時間の両面から見て物理的にほぼ不可能に近い、というのが現在の主流の見立てになります。