『知の欺瞞』をめぐるポイントは、数学・物理の言葉遣いに本来「レベルの違い」があるのに、それを一括して扱ってしまう点です。ここでは三段階に分けて考えます。第1に、予測や証明に使う「厳密な数式」としてのレベル。記号一つの意味がずれれば破綻する、本職の数学・物理の土俵です。第2に、集合やエントロピーなどを「現象を構造的に捉え直すモデル」として借りるレベル。社会学や精神分析が理論を輸入する際の使い方です。第3に、「量子的な恋愛」「エントロピー的な社会」など、雰囲気や比喩を優先するレベルです。
本稿で言う「『知の欺瞞』の欺瞞」とは、本来レベル2や3で書かれた人文系の数学用語を、一律にレベル1の厳密な数式としてだけ読解し、その齟齬をもって嘲笑と断罪の根拠にする態度を指します。これには三つの弊害があります。第一に、モデルとして真剣に検討すべき試みまで「誤った数式」として退け、自然科学と人文社会科学の対話を貧しくすること。第二に、比喩として何を残し何を捨てているかを読む努力を放棄し、「理解しようとしない姿勢」そのものを科学的態度と取り違えさせること。第三に、「難しいことを言う人はどうせインチキだ」という空気と結びつき、必要な専門性まで「ファッション」として片づける反知性主義を後押ししてしまうことです。
ではどうすべきか。読む側は、その用語が今どのレベルで使われているかを見極め、書く側も比喩なのかモデルなのかをできるだけ明示する必要があります。そのうえで、レベル3だから無罪放免なのではなく、「比喩としてどこまで元の理論に責任を負っているか」を丁寧に問うべきです。他領域を批判するなら、その基礎知識と文脈を自分で学ぶことも欠かせません。突き詰めれば、この問題の核心はリテラシーです。科学リテラシーと人文リテラシー、さらにメディアが煽る「成敗物語」を一歩引いて読むリテラシー。この複数のリテラシーを往復して初めて、「知の欺瞞」を笑う側の自分自身が、どれほど欺かれやすい存在かを自覚できるのだと思います。