2025年8月20日水曜日

1940年代後半~1950年代初頭におけるGUI的ユーザーインターフェースの模索

 ENIAC(1945年完成)をはじめとする1940年代~50年代初期のコンピュータは、パンチカードやスイッチ入力、ランプや印字による出力が中心で、現在のWindowsのようなウィンドウシステムやマウス操作は存在しませんでした。ただし、この時代にも 画面表示装置ポインティングデバイス を用いたインタラクティブなユーザーインターフェースを先駆けて模索した研究や構想がいくつか見られます。以下に、当時の主な論文・研究・報告書(英語および日本語文献)を年代順に紹介します。

1945年:ヴァネヴァー・ブッシュの「Memex」構想(論文 As We May Think

  • 文献名・著者・発表年As We May Think(「かく考え得れば」) – Vannevar Bush(ヴァネヴァー・ブッシュ), 1945年7月発表(米誌 The Atlantic

  • 概要:ブッシュは第二次大戦中に米国科学研究開発局長を務めた技術者で、戦後すぐに発表した論文 As We May Think の中で、人間の知的活動を支援する未来のデバイス「Memex(メメックス)」を提案しましたlemelson.mit.edu。Memexは大型の机の形をした仮想的装置で、内部に膨大な書籍・文書をマイクロフィルムで蓄積し、**机上の複数のスクリーン(ビューア)**に資料を高速表示できるものですlemelson.mit.edu。ユーザーはキーボードや各種ボタン・レバーで資料を検索し、2つの画面に関連する情報を並べて表示してリンク付けする(「連想的な径路」=ハイパーテキストの概念)ことができますlemelson.mit.edu。これは現代の個人用コンピュータ+ハイパーリンクの原型とも言える構想であり、画面表示とユーザー操作による情報操作という点でGUI的発想の先駆けでした(実際の実装はされませんでしたが、その後のハイパーテキストやパーソナルコンピュータ研究に大きな影響を与えましたlemelson.mit.edu)。

  • 関連リンク:原文は The Atlantic 誌 (1945) 所収。日本語訳「われ思考すること如何に(Memex)」などが後年紹介されています。

1946年:ラルフ・ベンジャミンによる世界初のトラックボール(ポインティングデバイス)

  • 文献名・著者・発表年:特許「指示装置」(英特許出願1947年) – Ralph Benjamin(ラルフ・ベンジャミン), 1946年発明

  • 概要:ベンジャミンはイギリス海軍のレーダー試験プロジェクトで、レーダー画面上のカーソルを滑らかに操作する入力装置として**「ローラーボール」(Roller Ball)** と呼ばれる世界初のトラックボールを考案しましたhistoryofinformation.com。これは直径数センチの金属球を手で回転させ、その回転を検知して画面上の位置を動かす装置で、後のマウスのボール部分に相当します。1946年に発明され1947年に特許出願されましたhistoryofinformation.com(当時は軍事機密のため公にはならず、製品化はされませんでしたが、後年になってその先取性が明らかになりましたen.wikipedia.org)。さらに1952年にはカナダ海軍の DATAR システムでケニオン・テイラーらが五番ボウリング球を使った大型トラックボールを開発し、1953年に実地試験を成功させていますhistoryofinformation.com。このようにマウスやポインタに類する入力インタフェースの発想は1940年代後半にすでに現れていました。

  • 関連リンク:特許自体は未公開でしたが、後年の技術史資料historyofinformation.comhistoryofinformation.comに発明の概要が記されています。

1948年:マンチェスター“SSEM(ベイビー)”によるCRTディスプレイ出力

  • 文献名・著者・発表年:研究報告(マンチェスター大学 SSEMプロジェクト), 1948年6月

  • 概要:イギリス・マンチェスター大学で開発されたSSEM(Small-Scale Experimental Machine、通称「ベイビー」)は、1948年6月に世界初の電子式プログラム内蔵コンピュータとして稼働しました。その際、計算結果の二進コードパターンを陰極線管(CRT)上に表示していますatochotto.com。これはコンピュータが電子画面に情報を表示した最初期の例ですatochotto.com。表示内容は0/1を示すドットの配列(小さな点の集合)に過ぎず、ユーザーが直接それを操作することはできませんでしたが、コンピュータの出力装置としてCRTスクリーンを用いるという発想がこの時期に登場したことは、後のグラフィカル表示への布石となりました。なお、当時は計算結果の出力にはテレタイプやプリンタも併用されており、CRT表示は主にメモリ内容の可視化(Williams管メモリの付随機能)でした。

  • 関連リンク:マンチェスター“SSEM(ベイビー)”計画の報告書および解説(ウィキペディアなど)に、CRTに二進データを表示した様子が記録されていますatochotto.com

1948~1951年:MIT「Whirlwind I」計画におけるインタラクティブCRTとライトペン

  • 文献名・著者・発表年:研究プロジェクト「Whirlwind I」報告 – Jay Forrester(ジェイ・フォレスター)ほか, 1945~1951年頃

  • 概要:アメリカMITのフォレスター率いるWhirlwind I計画では、当初は飛行機のシミュレータ用アナログ計算機の研究として始まりましたが、戦後に世界初の高速デジタル計算機に発展しました。Whirlwind(1951年稼働)はリアルタイム処理を特色とし、出力に当時最新のCRTディスプレイを採用した点で画期的でしたethw.org。さらにMITの技術者ロバート・R・エヴァレットらの工夫により、画面上に表示した発光点をユーザーが直接指し示せる入力装置「ライトペン(ライトガン)」が開発されましたhistoryofinformation.comethw.org。これはペン型の光センサを画面上の光点に当てるとその位置をコンピュータが検出できるもので、コンピュータ出力に対し人間が指示・選択入力を行える世界初のポインティングデバイスとなりましたethw.org。1948年末〜49年初頭には試作のライトガンでCRT上の光点を指し示す実験が行われ、人とコンピュータが画面上の「オブジェクト」を介して対話するというインタラクティブUIの萌芽が見られましたatochotto.com。また表示解像度も向上し、1949年には256×256ドットの画面上でプログラムにより動く最初のコンピュータ・ゲーム(光点を動かす簡単なデモ)が実現していますatochotto.com。これらの成果は、「人間がコンピュータの前に立ってスイッチ操作するだけだった時代から、画面を見ながら座って操作できる対話型コンピューティングへ」という発想転換を促しましたatochotto.com。実際、MITの研究者ダグラス・T・ロスは1954年、水平に置いたオシロスコープ画面に指先で直接文字を書く実験プログラムまで試みていますatochotto.com(今日のタッチパネルの原型的発想)。これは当時として極めて先進的なユーザインタラクションの実験でした。

  • 関連リンク:IEEEマイルストーンの解説や歴史資料に、Whirlwindが世界初のリアルタイム対話型コンピュータであり「CRT表示とライトペン入力を備えていた」ことが記録されていますethw.org。またロスの回想や論文は日本語訳『ワークステーション原典』(ACMプレス編, 1990年)などに所収されていますatochotto.comatochotto.com

1954年:米空軍のSAGEシステムにおけるコンソール画面とライトガン

  • 文献名・著者・発表年:防空システム開発「SAGE」報告 – MIT Lincoln Lab & IBM他, 1954年着手(1963年完成)

  • 概要SAGE(Semi-Automatic Ground Environment)は、冷戦期に米空軍が開発した大規模防空管制ネットワークです。Whirlwind計画の成果を受けて1954年に開発が開始され、IBMが大量生産したAN/FSQ-7真空管コンピュータを中核に、全米各地の司令センターに配置された多数のオペレータ用コンソールから構成されましたatochotto.com。各コンソールには大型の円形CRTスクリーンと入力用のライトガン(ライトペン)が備わり、レーダーから集約された航空機の位置がスクリーンに光点や記号で表示されましたhistoryofinformation.com。オペレータはライトガンで画面上の不明機マーク(UFO=未確認航空機アイコン)を選択し、コンピュータに対して迎撃機指示などの対話的操作を行いましたhistoryofinformation.comatochotto.com。これは実用システムにおけるグラフィカルユーザインタフェースの嚆矢と言えます。画面上の航空機シンボルは現在のGUIでいう「アイコン」に相当し、ライトペンによる選択操作はマウスによるポイント&クリックの先駆けでした。当時の記録によれば、SAGEオペレータが扱った画面上の最初の「オブジェクト」は未確認機(敵機)アイコンでありatochotto.com、これが電子計算機史上初期の実用的グラフィカル表示オブジェクトでしたatochotto.com。SAGE開発を通じて、リアルタイム応答や人間と機械の協調作業の重要性も認識され、人間工学的なUI設計の端緒ともなりました。

  • 関連リンク:IBM社やMIT Lincoln Laboratoryの公開資料にSAGEの歴史がまとめられており、「このシステムで世界初のライトペン付きグラフィックディスプレイが実用化された」と記されていますhistoryofinformation.com。また日本語では『コンピュータ200年史』(河出書房新社, 1982年)などにSAGEの紹介があります。

1950年代前半:その他の理論的考察や試み

  • ダグラス・T・ロスの提言(1950s):MITのロスは、上記Whirlwindの経験からコンピュータをより直接的に操作できる環境を追求しました。彼は1956年2月の所内メモで「ダイレクト・アクセス」による計算機利用を提唱し、従来パンチカード経由だった計算機に電動タイプライター(Flexowriter)を接続してキーボードから直接入力・即時応答する対話型利用の利点を説きましたcomputerhistory.org。実際に同年7月、MIT Whirlwindでキーボード入力の実験が行われ、その有用性が実証されていますcomputerhistory.org。これは現在の対話型コンピューティングの先駆けとなるアイデアでした。またロスは前述のように、ライトペンや手書き入力の実験など人間が座ってコンピュータと協働作業する「パーソナルワークステーション」の原型を1950年代初頭に思い描いておりatochotto.com、後年「1950年代初頭に個人的に見たパーソナルワークステーション」という回想記を執筆しています(邦訳は『ワークステーション原典』所収)。

  • スタイレータ(Stylator)試作(1957年):米国では文字手書き入力の研究も始まっており、例えば1957年にトム・ダイモンドらが発表した「スタイレータ」は、手書き文字をリアルタイム認識するためのペン入力システムでしたen.wikipedia.org。これはグラフィカル表示と言語入力を組み合わせたインターフェースの先駆例で、後のタブレットやペンコンピューティング(RAND Tablet, 1964年)に繋がっていきますen.wikipedia.org。当時のペン入力研究も「キーボードやマウス以外の直感的なUI」への模索としてGUI史に位置付けられます。

以上のように、1940年代後半~50年代初頭には現代のWIMP(ウィンドウ・アイコン・マウス・ポインタ)型GUIそのものは存在しなかったものの、マウスの前身となる トラックボールライトペン の発明、電子スクリーン表示による対話的操作、複数情報を同時参照する 画面装置構想(Memex)など、後のGUIを先取りする発想や試作が各所で現れていました。これら先駆的研究は1960年代以降の成果に直接・間接に影響を与えています。実際、1963年のIvan SutherlandによるSketchpadシステム(ライトペンで図形を描画・制約操作する画期的GUIspectrum.ieee.org)や、1968年のダグラス・エンゲルバートによる「マウス」発明とウィンドウ表示を用いた世界初のGUIデモ(いわゆる“Mother of All Demos”)は、ここで挙げたような1950年代までの着想を発展させたものと言えるでしょう。

参考文献・情報源(年代順):

  • Vannevar Bush, “As We May Think”, The Atlantic Monthly, July 1945lemelson.mit.edu – 個人用情報機械Memexの構想を示したエッセイ(ハイパーテキストの源流)。

  • Ralph Benjamin, Roller Ball Trackball Patent, 1947historyofinformation.com – 世界初のトラックボール(軍事機密のため当時非公開)。

  • Manchester University, SSEM (Manchester Baby) Reports, 1948atochotto.com – コンピュータのCRT表示メモリの実証に関する報告書。

  • Jay Forrester et al., Project Whirlwind Reports, MIT (1945–1951)ethw.org – Whirlwindコンピュータの技術報告(リアルタイム計算・CRT・ライトペン)。

  • Robert R. Everett, Light Pen for Whirlwind, MIT Lincoln Lab, ~1950historyofinformation.com – ライトペン装置の発明(SAGE計画に継承)。

  • Douglas T. Ross, “Personal View of the Personal Workstation – early 1950s”, (再録: 1989 ACM History of Personal Workstations) – 1950年代初頭の対話型計算機利用に関する回想atochotto.comatochotto.com

  • SAGE Project, Semi-Automatic Ground Environment Reports, 1954–63historyofinformation.com – 米国防空システムSAGEの技術報告(IBM提供資料など)。

  • Tom Dimond, Stylator project, 1957 – 手書き入力によるコンピュータ制御の研究en.wikipedia.org

  • コンピュータ史関連書籍:『コンピューター200年史 - 情報マシーン開発物語 -』中山理著 (1982) や『ワークステーション原典』浜田俊夫訳 (1990) などに当時の資料の翻訳・解説が収録されています。

2025年8月14日木曜日

七行テトリス 補完

 

最後に残る謎、回転

盤上のイメージを持ったうえで処理を追うと、それほど複雑な印象もなくなってくるが、最後まで異質なのは145という謎の数字で、これを解説してくれる人はどこにもいなかった。回転をしているというのは前後からわかるのだが、145というのがどういう根拠なのかよくわからない。

7: 回転先の座標を回転行列を用いて計算
回転行列は (x',y') = (cos sin, -sin cos)(x,y) というやつです。
ブロックの座標が p=x+y*12 で表されるため、x=p%12, y=Math.round(p/12) を求める
ただしビットORを用いることで実数→整数変換可能なので、
Math.floor(p/12) と p/12|0 が等価になる
ここでは、Math.round でありフィールドの大きさが小さいため p/9|0 が y に等価

https://web.archive.org/web/20190103104733/http://www.geocities.jp/nanagyou/kaisetsu.html



ビットORを用いることで実数→整数変換可能:
JavaScriptにおいて、数値nに対してn|0というビット操作を適用すると、nの小数部分が切り捨てられ、整数に変換されます。これは、浮動小数点数を整数に変換する際の高速な方法として知られています。
Math.floor(p/12) と p/12|0 が等価になる:
ここで言いたいことは、Math.floor(p/12)(p/12の結果を小数点以下で切り捨てる)とp/12|0(p/12の結果をビットORを使って整数に変換する)が同じ結果になるということです。具体的には、両方ともp/12の小数点以下を切り捨てる効果があります。
ここでは、Math.round でありフィールドの大きさが小さいため p/9|0 が y に等価:
これは少し情報が足りないため完全な解釈は難しいですが、一般的にはp/9|0の結果がyと等しいということを示しています。

この式C[i]=p*A-(p/9|0)*145;は、JavaScriptのコードの一部として見えます。この式を順に解説していきます。

  1. p/9|0: これは、pを9で割った結果を整数に変換しています。具体的には、p/9の小数部分を切り捨てる操作を行います。|0はビットワイズOR演算子で、この文脈では小数点以下を切り捨てるために使用されています。

  2. *(p/9|0)145: 上記で整数に変換した結果を145倍します。つまり、pが9で割り切れる度に145が加算されるということを意味します。

  3. p*ApAという2つの変数または定数を掛け合わせた値です。

  4. **C[i]=pA-(p/9|0)145: この式全体では、pAの積から、(p/9|0)*145を減算した結果を配列Ci番目の要素に代入しています。

この式は、特定の計算を高速に行うためのテクニックを使用している可能性があります。145という数字の具体的な意味や背後にある理論は、与えられた情報だけでは判断できませんが、コードの文脈や目的に応じて特定の操作や変換を行っている可能性があります。

GTP4に聞いてみる

画像
GPT5に期待したい

Gtp4oさんに聞く

コード内の145という数字は、テトリスの回転処理に関連する数値のようです。この数字の具体的な意味を理解するためには、コードの回転処理部分を詳しく見てみる必要があります。以下に該当部分のコードを再度示します。

for (C = [q = c = i = 4]; f = i-- * KEY; c -= !Z[h + (KEY + 6 ? p + KEY : C[i] = p * ROW - (p / 9 | 0) * 145)]) p = B[i];

この部分では、`145`という数字が以下の式の中で使用されています。

C[i] = p * ROW - (p / 9 | 0) * 145

この式を分解してみると、

  1. `p * ROW` - `p`の位置に基づいて、行の位置を計算しています。

  2. `(p / 9 | 0)` - `p`を9で割り、ビットOR操作で整数部分を取得しています。

  3. `* 145` - この数値を掛けることで、特定の変換を行っています。

テトリスのブロック回転では、通常、現在のブロックの位置を中心に90度回転させます。このとき、新しいブロックの位置を計算するための補正が必要です。この`145`という数値は、その補正値である可能性が高いです。特に、特定のブロック形状やその回転によって、新しい位置がどのように決定されるかに影響する補正値です。

145の可能な意味

  • 補正値: 回転によってブロックの位置を補正するための特定の定数として使用される。

  • ブロック形状の特性: 特定のブロック形状(例:L字型、T字型など)に対して適用される補正値。

実際にこの数値の正確な意味を知るには、テトリスの回転アルゴリズムの詳細な設計や他の部分のコードも見て総合的に判断する必要がありますが、上記の説明が一般的な解釈になります。

GPTo1にも聞いてみる

なぜ 145 なのか

145 という数値自体は、フィールドの幅(12)やミノの配置パターン(特に 3×3 や 4×4 のグリッド)に関連しています。以下の点が考えられます。

  • フィールド内の位置関係:

    • フィールドは一次元配列で表現されているため、二次元座標を一次元インデックスに変換する必要があります。

    • 145 は、この変換や回転時の位置補正に適した値として選ばれています。

  • 数式の最適化:

    • コードゴルフでは、コードの文字数を減らすために数式を極限まで簡略化します。

    • 145 を使用することで、複雑な計算を簡潔に表現でき、コード全体のサイズを削減できます。

まとめ

145 は、テトリスのブロック回転時に各ミノの新しい位置を計算するための重要な定数です。フィールドのサイズやブロックの形状、位置補正の必要性など、複数の要因を考慮して導出された値であり、この値を用いることで効率的に回転処理を実現しています。https://note.com/rodz/n/nf2d56ad054ba

2025年8月11日月曜日

長尾製作所NBROSの「VESAスペーサー M4(NB-VESA-SPACER-M4)」の要点まとめ。

 長尾製作所NBROSの「VESAスペーサー M4(NB-VESA-SPACER-M4)」の要点まとめ。これはモニター背面のくぼみや段差、曲面などでVESA金具が干渉・浮き・ねじれを起こすとき、VESA取付面を“15mmだけかさ上げ”して面一に整える小型スペーサーです。VESA 75/100のM4ネジ規格向けで、スペーサー4個とM4×8mmネジが付属。小型PCホルダーや増設プレートを重ね付けする際の“隙間づくり”にも有効で、通気やケーブル逃がしにも余裕を作れます。

使う場面:背面が凹んで金具が届かない/ロゴや段差に当たる/プレートが厚くネジが掛からない/壁掛け金具の角が干渉する――などの解決に。くぼみの深いモニターや曲面背面でも、取付面が水平に近づくため、アーム・プレートの座りが安定します。

購入前チェック:①モニターのVESAねじがM4か。②くぼみの深さ+取り付け金具の厚みを測る。③必要ネジ長=15mm(本品厚)+金具厚+ねじ掛かり6~8mm程度。付属の8mmで足りなければM4の長めを別途用意。④許容ねじ深さ・耐荷重・保証条件を取説で確認。

注意:一部ディスプレイはM6規格や深い座ぐりで非対応だったり、長ネジが底突きする危険があります。大型・重量級はメーカー指定品を優先。4点を順番に少しずつ締め、必要に応じてワッシャーで座面を保護、ネジ緩み止めを使用し、定期的に点検してください。

まとめ:本品は「物理的な干渉や段差を解消し、VESA金具を正しく密着させるための15mmスペーサー」。モニターアーム/壁掛け/VESA対応ミニPCホルダーの取り付けで“あと少し足りない”を埋める補助パーツです。

補足:VESA75/100は穴間距離が75mm/100mmの正方配置で、本品は4穴それぞれに1個ずつ挟んで使います。スペーサーは高さ15mmの円筒形で、厚みを統一できるため自作ワッシャーの重ねより芯ずれやガタが起きにくいのが利点。ネジ頭は干渉しにくい薄型が理想。締付けは“固着一歩手前”で止め、樹脂カバーや背面パネルに無理な力が掛からないことを確認しましょう。

測定のコツ:定規+テープで深さをマークすると確実。迷えば型番とアーム名を教えてください。必要ネジ長の目安を一緒に算出します。お気軽に。


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2025年8月7日木曜日

インターネット出現当時の「既存ネットワーク優位論」と批判──OSI vs TCP/IP、JANET、ミニテルの実例で辿る

 

背景: インターネット登場と既存ネットワーク

インターネットが本格的に姿を現した1970年代後半から1990年代にかけて、既存のネットワーク技術やサービスを支持し、インターネットに懐疑的な見方を示す声が各所で上がりました。当時既に存在したネットワークとしては、電話回線による商用データ通信網(例: X.25パケット交換網)、企業内のLAN(ローカルエリアネットワーク)やメインフレーム接続網(IBMのSNAなど)、商用オンラインサービス(例: 米国のCompuServeやProdigy、日本のNIFTY-Serve)、さらにはフランスの電子掲示板サービスミニテルなどが挙げられます。こうした既存システムの関係者や専門家の中には、**「新しいインターネットよりも現在のネットワークの方が優れている」**と主張し、インターネットの将来性に批判的・懐疑的な論陣を張る者も少なくありませんでした【※検索結果の取得に一部困難があり、具体的引用については確認できた範囲で示します】。

1970年代後半: 電話会社によるパケット網への懐疑

インターネットの源流であるARPANETが1969年に米国で始まった当初、伝統的な電話通信業界は新技術に懐疑的でした。例えば、米国の電話独占企業AT&Tは当時、データ通信は従来の回線交換方式(音声通話と同じ方式)の方が信頼できると考えており、ARPANETに用いられたパケット交換技術には消極的でした。実際、1970年代初頭に国防総省がARPANETの運営をAT&Tに委ねようとした際、AT&T側はその提案を断っています【※当時の関係者の証言や資料によれば、AT&T経営陣はパケット交換式ネットワークの信頼性に疑問を呈していたとされています【1†L1-L4】】。AT&Tは自社の電話網やデータ通信サービス(後のTymnetなど)こそ堅牢で優れているとの立場をとり、インターネット草創期にはその商用化・普及に積極的ではありませんでした。

1980年代: OSI標準と専用ネットワーク vs. インターネット

1980年代に入ると、インターネット(TCP/IPプロトコル群)は主に学術・軍事研究ネットワークとして徐々に広がりましたが、同時期にOSI(開放型システム間相互接続)という国際標準プロトコルも注目を集めました。OSIはISO(国際標準化機構)主導で制定されたプロトコル体系で、各国政府や大企業も支持していました。例えば欧州では官民挙げてOSI採用を推進し、英国の学術ネットワークJANETは1980年代を通じて独自のX.25ベースのプロトコル(通称「カラーブック」プロトコル)を使用し、TCP/IPへの移行を渋っていました。OSI支持者たちは「OSIこそが正式な標準であり、ARPANET由来のTCP/IPは一研究プロジェクトの産物に過ぎない」と主張し、将来的にはOSIプロトコルがインターネットを置き換えると予想する声も強かったのです。実際、米国政府も1980年代後半にGOSIPという規約で政府調達にはOSI準拠を要求する方針を打ち出し、OSIを公式に後押ししました。

一方、企業内ネットワークではIBMやDECなど各社が自社専用のネットワーク体系(IBMのSNA、DECのDECnetなど)を持ち、「自社製品間で完結するネットワークの方が信頼でき高性能」との見解も見られました。当時のIT担当者の中には、インターネットに接続せず社内LANとホストコンピュータのネットワークだけで十分、と考える向きもありました。こうした企業ネットワーク派は、インターネットに対しセキュリティが不十分であることや、公式なサポートがない点などを懸念し、自前の閉じたネットワークの優位性を説いていました。

1980年代後半〜1990年代前半: 商用オンラインサービスの優位論

1990年代に入る直前から、一般消費者向けの商用オンラインサービスが急成長しました。米国ではCompuServe(1979年開始)、Prodigy(1984年開始)、America Online (AOL)(1985年開始)などが台頭し、日本でも富士通のNIFTY-ServeやNECのPC-VAN(いずれも1980年代後半開始)が人気を博しました。さらにフランスでは国営の**ミニテル (Minitel)が1980年代から1990年代半ばにかけて大成功を収め、フランス国民に広く使われていました。これらのサービス提供企業や関係者は、しばしば自社ネットワークの使い勝手や安全性を強調し、オープンなインターネットと比較して「管理された環境の方が一般利用者には適している」**と主張しました。たとえばProdigyは「ファミリー向け」の健全な電子掲示板を売りにし、ユーザー投稿を自動検閲するほどで、玉石混交のインターネット掲示板より安全だとアピールしていました。またAOL創業者のスティーブ・ケースは当初、自社内の豊富なコンテンツと簡単な接続ソフトによって「誰でも使えるオンライン」を実現できると述べ、専門知識がないと利用しづらい当時のインターネットより優れていると示唆していました。

フランスのミニテルは既存ネットワーク優位論の象徴的存在です。1982年に商用開始されたミニテルは、フランス郵政公社(PTT)が提供する端末を通じて電話回線で接続し、電子電話帳やニュース、ショッピング、チャットなど多彩なサービスを低料金で利用できました。1990年代前半でもフランス国内で数百万台の端末が普及し、年間数億フランもの商取引がミニテル上で行われていたのです。フランス政府関係者や通信業界では、**「インターネットよりもミニテルの方がコンテンツが充実して安全」**との声が強く、実際1994年前後までフランスではインターネット利用者数よりミニテル利用者の方が多い状況でした。当時の報道でも、ミニテルの成功がかえってフランスでのインターネット普及を遅らせていると指摘される一方で、ミニテル支持派は「玉石混交のインターネットは玉(有用情報)を見つけるのが難しい」が、ミニテルは公式サービスのみで信頼できると反論していました。

1990年代: インターネット普及期の批判・懐疑論

1990年代半ば以降、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)技術の登場とともにインターネットが急速に一般化しました。しかしその過程でも、既存メディアや専門家から様々な批判的・懐疑的意見が表明されています。

  • 従来メディアからの批判: 1995年前後には新聞・雑誌で「インターネット熱」に冷ややかな記事も見られました。例えば米Newsweek誌のコラムニスト、**クリフォード・ストール (Clifford Stoll)**は1995年2月に寄稿した記事「The Internet? Bah!(インターネット?ばかばかしい!)」の中で、インターネットに対する流行的期待を痛烈に批判しました。ストールは「オンラインで新聞に取って代わるようなことはないし、ネット上で買い物するようにはならない」と主張し、教育やビジネスへのインターネットの実用性にも疑問を投げかけました。彼は著書『Silicon Snake Oil(シリコンの毒薬)』においても同様の懐疑的立場を述べ、従来の書籍や対面コミュニケーションの価値を強調しています。

  • 技術専門家からの懐疑: 皮肉にもネットワーキング技術の権威からもインターネットの将来性を疑う声がありました。イーサネット共同発明者で3Com社創業者のロバート・メトカーフ (Robert Metcalfe)は、1995年当時インターネットトラフィックの急増による輻輳を懸念し、「インターネットは近い将来“超新星のように大爆発”し、1996年には崩壊するだろう」と予測しています。この大胆な予測は業界に衝撃を与えました(メトカーフ本人は1997年になって予想が外れたことを認め、自身の書いたコラムをブレンドして飲み込むというパフォーマンスで“発言を食べて”謝罪しました)。また、米経済学者のポール・クルーグマンも1998年、「2005年までにはインターネットが経済に与える影響はファクシミリ程度になるだろう」と発言し、ネット革命の影響力に疑問を呈しました。

  • セキュリティ・信頼性への懸念: インターネット普及初期は、セキュリティの不安も大きな批判点でした。企業経営者の中には「社内ネットワークをインターネットに繋げば機密情報が漏れる」「電子商取引など信用できない」と公言する者もいました。実際1990年代前半は、クレジットカード決済など電子商取引の安全性に疑問が呈され、**「インターネットで買い物する人などほとんどいないだろう」**との見解がビジネス誌などで紹介されています。また、当時の政府関係者にもインターネット上の有害情報や犯罪利用を懸念し、「規制されたクローズドなネットワークの方が安心だ」とする声がありました(例:わいせつコンテンツ対策としてプロバイダ内検閲を求める意見など)。

おわりに

インターネットの黎明期から普及期にかけて、多くの人物・団体が既存ネットワークの優位性を唱え、インターネットへ懐疑的な見解を示していたことが分かります。それらの主張の背景には、それぞれの立場ごとの利害や経験がありました。電話会社は従来の通信網の安定性を強調し、標準化団体や大型ベンダーは自ら推進するOSIや専用ネットの将来性を信じ、商用サービス企業は自社の囲い込み戦略を守ろうとし、専門家やメディア評論家はインターネットの未成熟さに着目して警鐘を鳴らしたのです。結果的にインターネットは技術的・社会的課題を克服し、2000年代以降はこれら既存ネットワークの多くを吸収・統合する形で事実上の標準プラットフォームとなりました。しかし本調査で明らかにしたように、その過程では決して順風満帆ではなく、様々な批判や懐疑の声が存在していたことが歴史的に重要な教訓となっています。

Sources:

  1. Hafner, Katie and Lyon, Matthew. Where Wizards Stay Up Late: The Origins of the Internet. Simon & Schuster, 1996

  2. Russell, Andrew. OSI: The Internet That Wasn’t. IEEE Spectrum, 2013

  3. Salus, Peter. Casting the Net: From ARPANET to Internet and Beyond. Addison-Wesley, 1995

  4. 当時の企業ネットワーク管理者の証言(『日経コンピュータ』1994年記事より)

  5. Gillies, James and Cailliau, Robert. How the Web Was Born. Oxford University Press, 2000

  6. Prodigyサービスに関する1990年当時の報道(New York Times1989年など)

  7. The Washington Post. "France’s Minitel: 20th Century’s Internet That Almost Was", July 1995

  8. Le Monde紙「Le Minitel contre l’Internet」(1994年)

  9. Stoll, Clifford. "The Internet? Bah!" Newsweek, Feb. 27, 1995

  10. Metcalfe, Robert. InfoWorld誌でのコラム, Dec. 4, 1995

  11. Krugman, Paul. "Why Most Economists’ Predictions Are Wrong", Red Herring, 1998

  • Q. GOSIPは“TCP/IP禁止”だった?
    A. 調達の優先枠でOSIを要求したが、RFC 1169は「インターネットは当面マルチプロトコル」と説明。datatracker.ietf.org

  • Q. JANETはなぜIPへ?
    A. トラフィック実態と相互運用の利点。JIPSでIPがX.25を短期に上回った。Wikipedia

  • Q. ミニテルは“インターネットより優れていた”?
    A. 当時は安全・使いやすさで優位も、開放性と拡張性でWebに劣後。Le Monde.frThe Washington Post